エミリ・ディキンソン
対 訳 ディキンソン詩集 岩波書店>>
峰書房刊「エミリの窓から」>>
絵 本「エミリー」>>
海の中でもがく一滴の水は
自分の居場所を 忘れてしまっている
ちょうど あなたに対する時の私のように
今から約150年前にアメリカに生きた女性、エミリ・ディキンソンの詩です。彼女がほとんど家から出ることもなく生涯を過ごしていたことはWAVESの中で書きました(絵本「エミリー」)。
今日は熱を出したので、エミリーの詩が自分には合っているのかと、ページをめくっていました。淋しい時に淋しい歌を聴いてずーっと泣いている人と、喜劇 に飛び込んで無理矢理笑う人と・・私は前者みたいです。
「私を縛ってください---でも まだ歌えます/追い払って下さい---でも 私のマンドリンは/心の中で 真実を打ち響かせます/殺して下さい---そ うすれば 私の魂は/歌いながら 天国へと上って行くでしょう/それでも ずっとあなたのもの」(峰書房刊「
この力強い詩を淋しい人に差し上げましょう。もう淋しくないといいのですけれど・・。私はもうちょっとここで淋しい歌を聴いています。
風立ちぬ/掘辰雄 新潮文庫>>
リ ルケ詩集 新潮文庫>>
今まで鳴っていたCDが止まると、こおろぎの声が聞こえてきます。4階のこの部屋まで聞こえてくるとちょっと嬉しくなります。今日は涼しい風が吹きまし た。西日本に住んでいる友の方でも今日は秋らしい風を感じたそうです。旧盆が過ぎると、今年も夏は終ったな、という気持ちがいつもします。長い休暇だった 人もたぶん今日で終わりでしょう。田舎の方ではもう新学期が始まるでしょう。そして、たぶん今日で私の夏も終わりになります。
はるか昔に読んだ小説のことをちょっと調べたくて、図書館にある93年出版のものを借りてきたら、旧仮名が改められ、活字も大きく読みやすく印刷されて いて、なんだか違う小説を読んでいる気分になった。小説がある程度、時代を映し、時代を伝えるものだとしたら、著者の扱った時代の文字を尊重するのも必要 なことかと感じるのですが・・・
それはともかく、秋の訪れを強く意識させるこの小説に、この夏を見送るためにとても似つかわしい詩がありましたので引用します。リルケの「レクイエム」 です。(「風立ちぬ/掘辰雄著」の中から)
帰って入らっしゃるな。さうしてもしお前に我慢できたら、
死者たちの間に死んでお出。死者にもたんと仕事はある。
けれども私に助力はしておくれ、お前の気を散らさない程度で、
しばしば遠くのものが私に助力をしてくれるように----私の裡で。
「帰って入らっしゃるな」という言葉はとても強く響きますが、著者が自分自身の生をいきるためには「帰っておいで」と囁くことと同じだけの深い深い想いが 込められているにちがいありません。天上の人々はいつでも導き手です。guiding lightなのです。
タゴール
タ ゴール詩集 / 山室静訳 彌生書房>>
「技術は人を過信させ、手に余る欲望を生む。欲望は攻撃を呼び起こし、争いは予想もしない損傷を罪の無い身体に残すだけ・・」こんなこと書いたってなんに もならない!!
同時テロの危険性はもう何年も前から気遣われてきた。狂信的な人間が1人、背中に爆薬を背負って世界貿易センターに昇ればNYじゅうを破壊できる。そん な話を前からしていた。いつでも起こりうる事、でもそんな愚かな事をしてどうする・・その後の事は考えられなかった。けれども今は考えなくては。
困惑している人類の歴史をつきぬけて
破壊の盲目な憤怒が突進してくる
文明の高塔は粉々になって砕け落ち
倫理的ニヒリズムの混沌の中で
何代もの犠牲者によって英雄的に獲得された人類の至宝が
強盗どもの足に踏みにじられる
(困惑している人類の歴史をつきぬけて/タゴール)
ジョンとヨーコ ラスト・インタビュー(集英社)は現在絶版です。
中 央公論新社の「ジョン・レノンラスト・インタビュー」>>
人間の大地 サン=テ グジュペリ・コレクション/サン=テグジュぺリ みすず書房>>
ムー ミン童話全集〈6〉/ムーミン谷の仲間たち/トーベ・ヤンソン/山室静 訳
一言だけいま言うとしたら・・現時点で起こった事はあくまでテロ行為であって、戦争ではない、ということ。
今日、図書館で借りてきた本は、「ジョンとヨーコ ラスト・インタビュー/集英社」・・「ジョンの声は、中東が戦争の危機にさらされている今このときに も、炎天下のストロベリー・フィールズで、事件の絶えないこのニューヨークの街で、今もなお息づいている。(中略)反目しあっていた大国同士−−アメリカ とソ連の指導者たちが世界の人々に向けて、ジョンとヨーコの聖歌を引用し、"平和にもチャンスを"と語った。回り道をしながらも、今、世界は平和に向けて 歩もうとしている。・・」(1990年発行のまえがきより)・・本当にそうなのか?ジョンの死から10年のこのとき、さらに10年の現在・・アメリカの指 導者は何を語るのか・・?
「人間の大地/サン・テグジュぺリ/みすず書房」より飛行士である彼の言葉・・「たがいに結びつくように試みなければならない。田園のなかにぽつんぽつん と燃えているそれらの灯のいくつかと通じ合うよう努力しなければならない」
「ムーミン谷の仲間たち/トーベ・ヤンソン/講談社」よりスナフキンの言葉・・「おまえさん、あんまりおまえさんがだれかを崇拝したら、ほんとの自由は、 えられないんだぜ」
たまたま選んだ3册の本、言葉はわたしたちの道を示し、その道しるべは人間によっていかようにも向きを変えられる。
W・B・イェイツ
酒は唇(くち)よりきたり
恋は眼(まなこ)より入(い)る。
われら老いかつ死ぬる前に
知るべき一切の真はこれのみ。
われ盃を唇にあて
おんみを眺めかつ嘆息(ためいき)す。
(イェイツ「酒の唄」/西条八十訳詩集『白孔雀』より)
イェイツ先生の肖像は、英国の俳優ジェレミー・アイアンズに似ていて、そんな不純な動機で憧れでした。(眼より入ったわけです)この詩は知性と幻想の詩 人にしてはしっとりとした趣がありますね。つい最近この西条八十の訳詩に触れたのですがさすがに音楽と詩を知り尽くした人とあって、あのポーの名詩『大 鴉』の訳は感激いたしました。それはまたいつかお話するとして、、「眺めかつ嘆息す」るような方を前に盃を傾けるのは、やはり昼日中の宴席ではなくて、お 酒の色と灯りの色が同じに見えるくらいの、仄かな暗さが必要でしょうね。。。おかしな独り言をいってないで、そろそろ寝ます(笑)
一 瞬の光のなかで〈上〉 扶桑社ミステリー
/ロバート・ゴダード
今、無性に本が読みたくて、、それもどっぷり時を忘れて夢中で読みふけるようなミステリーとかサスペンスとか。先日まで、ロ バート・ゴダードの「一瞬の光のなかで」というのを読んでいて、カメラマンの男が旅先での撮影中、ファインダーを横切った女性にシャッターを切っ たことから恋に落ちて、ところがその後彼女は行方不明に・・事件も絡んで、探せば探すほど、彼女の実像は掴めなくなり、いつの日か彼女が誰だったのかわか る日が来る、と信じつつ手がかりを求め続けるのだけど・・・(ちょっと胸がせつなくなるミステリー)
ゴダードはケンブリッジで歴史学を学んだそうで、19世紀と現代の英国が交錯する時代考証は見事。以前から、もう今後は学者が小説を書く時代、、と話し てきたけれど、広範な知識を背景に書かれたエンターテイメント小説はやはり面白い。
そして、おもむろに高村薫クンの「リ ヴィエラを撃て」が読みたくなる。時間が無くて途中で断念したまま。IRAの工作員がからむ話で、その辺も今の私にはツボ。私と知人は薫サンとは 呼ばない。薫クン。あの方の文章は女性じゃないです。私生活でお母様が亡くなって、生活の雑多の処理も増え、前のようなサスペンスはもう書かない と・・・。誰か薫クンにお嫁さんを貰ってあげて、そして書くことだけに専念してもらって、とずっと思ってきましたが、薫サンは今度、母の物語をお書きに なったそう。本当にあの方のような徹底したもの書きが仕事をやり続けるには、側にいてくれたお母様の力はとても大きかったのでしょうね。薫サンが女性の生 涯を描く小説、どんななのでしょう・・
石のハート/レナーテ・ドレスタイン 新 潮社
ボリス・ヴィアンを原案にした映画「クロエ」を見に行く途中、余りの暑さに倒れそうになり、脱水状態寸前で映画館のシートに凭れて・・・これ見ながら死 んだらシャレにもなんないな・・って可笑しくなった。しばらくは仕事以外で出掛けるのは慎もうと思います、それこそ心臓抜きになっちゃう。。ところで「ク ロエ」、、利重監督の映像は美しいです。でも笑いながら死んでいったヴィアンの悲痛な可笑しみは、手のつけようもなかったのでしょう。あのハツカネズミの 哀しみなんて描けませんものね。
*****
週末、新聞の書評から、気になっていた作品『石 のハート』(レナーテ・ドレスタイン)を読んだ。12歳で家族のすべてを失った女性の約30年後の物語。喪失、不信、孤独、トラウマ、それらの絡 まり合いを少しずつほぐして「生きる」という価値を自分の中に見出していく。川上弘美さんの書評では「解決」ということがテーマのひとつに取り上げられて いたけれど、私が感じたのは、かつての家族の中や、現在に至る人間関係の中で、いかに切実に自分が「理解」されるのを求めていたか、愛される事を求めてい たか、その痛ましいほどの「飢え」、これを一番強く感じた。特殊な喪失でありながら、この物語が求められるのは、おなじ「飢え」を現代人(特に同世代の女 性)が感じるからなのだろう。
どなたかこれ読んだ方いるでしょうか? 巧みな構成力、ストーリーテリングだと思います。・・と言いつつ、個人的には同じテーマなら、優れたドキュメン トであればその方がいい、と思ってしまう。ストーリーの中では手にとって示してくれるような「解決」も「救済」も要らない、と思ってしまう私だから。。。 でもこの前も「文学サイト」の方でちょっと書いてきましたが、小説のみならずあらゆる芸術作品が「志向させてくれるもの」より「寄り添ってくれるもの」と して求められる現代なのかな、とも。上の作品で言えば、自然界の描写がほとんど無い事も現代的。(自分の家の庭づくりはずっと出てくるけど、それは自分だ けの箱庭だから)・・飢えの裏返しの対人的孤独がここまで強まると、自然など何の手掛かりにもならない、ということかもしれない。対人的孤独、なんて書い てみて、ヘンな言葉だね、、、と思う。そもそも孤独に対人も何もあったもんじゃない。
ボリス・パステルナーク
ボリス・パステルナークという、スターリン時代のソヴィエトを経て'60年に亡くなった詩人のことを教えていただきました。以下、『パステルナーク詩 集』より。
自意識がひたすら内部に向かうときに人間は自 壊する―というのがパステルナークの重要な命題だったと思う。(中略)自意識を自然に向けて、そこから贈 物をもらう。意識はいわば言葉であるが、これは病むものであって、これを癒す生命エネルギーは自然からくる。・・(解説・工藤正広)詩は、何年もかかって自分と対話していくように思いますので、パステル ナークの詩を理解するにはまだ全然至りませんが、この部分にとても惹かれて、これ から時間をかけて読んでいきたいと思っているところです。・・そう、言葉は病むことに怯えません。私はむしろ、力を持って病むこと、に文学の意義を感じた りします。先の『石のハート』で、小説の自然描写にすこし触れましたが、今は人間の内へ内へと関心が注がれる時代。そこで描かれ る狂気や異常心理は、力を持って病むこと、とはまた違うような。。だから先のパステルナークの命題に頷くのです。
無知(L'Ignorance)/ミラン・クンデラ 集 英社
存 在の耐えられない軽さ 集英社文庫
泣くのをこらえて本を読む。悲しいラブストーリーでもない、誰かが死ぬわけでもない。
・・「小さな道、野バラ、木々、そしてまたも や木々。奇妙に感動しながら、地平線上の植林された丘を眺めていると、自分の人生のあいだ、チェコ人は二 度にわたって、この風景が自分たちのものでありつづけるために死ぬ覚悟をしたのだという考えが浮かんでくる。1938年、彼らはヒトラーと闘おうとした。 同盟国のフランスとイギリスにそうするのをさまたげられたとき、彼らは絶望した。1968年、ロシア人がこの国を侵略すると、彼らはふたたび闘おうとし た。彼らは同じように降伏せざるをえなくなり、ふたたび同じ絶望におちいった。」『無 知(L'Ignorance)』ミラン・クンデラ著 P150より
ソ連軍の侵攻ののち国を出た亡命者については、クンデラ原作の映画『存在の耐えられない軽さ』などでも知られていることと思います。2000年に出版 (但し仏ではまだ刊行されていない)、昨年翻訳されたこの最新作は、冷戦終結、共産主義の終焉を経て、亡命者として暮らしてきた女と、男が、ふたたび国へ と還っていく物語。思えば、ベルリンの壁に若者たちがよじ登り、ハンマーで壁を叩き壊すTV映像に感動した束の間の時間。それがいったい何だったのかと遠 い夢を見るような、それ以降の世界。。「全世界に拍手喝采された資本主義の回帰」(P151)は、どのようにふたりを迎えたのでしょう。
チェコで作品が発禁となり国を捨ててフランスへ逃れたクンデラが、25年の亡命生活のあと、世界中を呑みこんでいく「アメリカ的価値観(解説中の言 葉)」の中で、もういちど祖国を失う。・・小説家が母国語を捨てる悲しみ、、そうまでして守り、書き続けたものは、もはや郷愁の中で失われた国。
人間は、どんなに鋭い目で現実を把握していても、未来に対していかに「無知」なものであるか。クンデラでさえ、と言わなければなりません。まだ老いたと は言いたくないけれど、これを書かねばならなかったクンデラの失意を思い、とてもつらかった。
・・「音楽が死にかけている、音楽の汚水だ。」 (P156)言語を失った作家は、音楽をも失ったと訴えるのだろうか・・? 洪水のよ うに世界へなだれこんでいく西側の音。それがもたらすものに危惧もある、でも私 は言葉も音楽も愛する者。だから苦しみつつクンデラの失意に思いを馳せるしかない。悔し涙、かもしれないし、それでもなおクンデラは偉大な作家だと思う感 動かもしれない。
クンデラ作品にしては極めて短い小説でもあって、昨夜と今朝で読了。一方TVでは「よど号事件」のドキュメントドラマが放映されて、1970年を思い返 す。と言っても私など何も知らないに等しい・・。三島由紀夫の割腹がこの年の11月だから、三島も事件をTVで見ていたということになる。・・・人間はど んな未来を信じたとしても、人間は未来に対して余りにも「無知」な存在なのだと、ここでも思う。
石に泳ぐ魚/柳美里
新聞で、最高裁の判決が出たという事なので、柳美里さんの小説「石に泳ぐ魚」について少し書いておきます。この問題については今までにもモノ書き仲間の 間で何回か話題にもなっていたので、これでまた皆がどう考えるか。。
読者は小説の何がモデル部分で、何が創作部分なのか判断することの出来ない立場にあります。モデルとされた人物はさらに、描かれた何処から何処までを自 分と見なされるのか、その判断のされ方に何の力も持たない立場にあります。作者は、この点でもとより専制君主的なのです。だからこそ作者は謙虚である事を 自分に命じなければならないのです。手に入れやすい事実を頼みにするのでなく、謙虚に自分の想像に力を求めなければならないのです。
人間個人の「生」には代替は無い。「困難な生をいかに生き抜くか」、それがテーマであれば、作家には「困難な生」を創作する想像力と描写の自由な領域が いくらでも残されている。その意味で、柳氏の訴える「文芸作品の可能性」も「表現の自由」も何ら侵されはしない。「今回の判決は作家個人の問題を超 え・・」と語るのは大きな間違い。モデルの「生」を借りなければテーマに沿うような「生」を創り出せなかった「創作力の不足」というあくまで「作家個人」 の問題なのに、それをこの国の表現の自由に結びつけるのは、単なる論点のすり替え。
一個人の問題を、あたかも国家による表現の統制のように問題を置き換えて、作家の自由をふりかざすのは、それこそペンによる暴力では?・・・・同様の理 由で、私は彼女の現在の仕事、東由多加氏(でしたか?)との恋愛と出産を描いた作品群も否定します。その愛を否定するのではなく作品を否定するのです。 「私小説」の「私」だけを前面にした売り方も、「私小説」の「私」に対する好奇心から受け取る読み手も・・・ただ、それだけのこと。
明治41年(1908年)に夏目漱石が書いた『田山花袋君に答ふ』から引用しましょう・・。
「拵(こし)らえものを苦にせらるるよりも、活きているとしか思えぬ人間や、自然としか思えぬ脚色を拵える方を苦心したら、どうだろう。拵らえた人間 が活きているとしか思えなくって、拵らえた脚色が自然としか思えぬならば、拵らえた作者は一種のクリエーターである。拵えた事を誇りと心得る方が当然であ る。」
・・100年前から文壇の議論は何も進まないのね・・
レモン哀歌/ 高村光太郎
智 恵子抄 新潮文庫 高村光太郎著>>
高 村光太郎詩集 新潮文庫
ハリー·ポッターの本の注文は何ですか
古代中世の夜は漆黒。だから香りはその人がその人であることのIDカードみたいなものだったのでしょう。そこで、別人の香りを纏うことで人をたばかる (!)という「策略」も生まれて。。(笑)
香りが自分のアイデンティティだとすれば、どんな香りの人、、と思い浮かべられるのがいいですか? 私は香水の名前じゃないほうがいいナ、というか言い 当てられないものがいいな。。そういえば小説の中では「香り」をたまに使います。香りは映像化できないけれど、文章では使えるという利点もありますし。 「雨に濡れたレザージャケットの匂い」とか、「口紅の油臭さ」とか、、、(どういう状況下かはご想像を)
香りと記憶って強くむすびついていて、それは科学的にも確からしいですね。香りでその人を思い出す、過去を思い出す、というのも理解できるし。柑橘系の 香りは記憶をより強く引き出すそうで、だから試験の前にレモネードとか飲むのは効果的だとか聞いたこともあります。いつも思うのが『レモン哀歌』・・
トパアズいろの香気が立つ
その数滴の天のものなるレモンの汁は
ぱつとあなたの意識を正常にした
このレモンの力は、根拠のあるものだったわけです。夢の世界に生きる智恵子が、一瞬、光太郎の手元へ引き戻された瞬間です。
・・都会は匂いに溢れすぎてて、19歳の頃、人ごみ恐怖症になったっけ。。どこへいっても人工物の匂いから逃れられないからね、たまに氷点下10度の 朝の(匂い)を呼吸したくなるんだな。
アイルランド現代詩は語る/栩 木伸明
ア イルランド現代詩は語る―オルタナティヴとしての声/栩木伸明 思潮社>>
そろそろ・・・かな? と思って、去年ブックマークに入れてあったサイトを開いてみたら、やはり今日(11日)からアイルランドではセント・パトリック のお祭りが始まるのでした。
栩木伸明先生の『アイルランド現代詩は語る』という本をたまに開いてみていて、私はシェイマス・ヒーニー以外のアイルランド詩人は全然わからないのだけ ど、私と同じ生まれ年のパット・ボランという詩人が、こんなことを語っている文章が載っていました。
一般に「祈り」というのは「あれがほしいこ れがほしい」と神様に頼むことだと思われてるけど、ぼくにとって本物の祈りは「褒め称える」ことだね。い まここにあることを感謝すること。オレはこれが好きだ、オレは今この瞬間を信じる、ということ。自分を再定義する瞬間。そういう瞬間にいたるようなプロセ スが祈りだ」(P56)
この人は高校を出たあと、ロックミュージシャンになるつもりだったそうで、ロックスターになりたい、という願望と、↑の言葉のような無垢な精神性が矛盾 せずに彼という人間の中に在る、ということがアイルランドの「声の文化」が持ち続けてきたひとつの「力」だと思うし、そんな所に私もなんとなく導かれてき たのかもしれない、と思っています。
山村暮鳥
「山村暮鳥詩集」 現代詩文庫 思潮社
「雲」 日本図書センター
桜の憂鬱は都会のものかもしれません。霞んだ空の下に淡い花色があって、その物憂さはこちらに来てから感じるようになりました。まったく、標高600m の紫外線いっぱいの陽光がふりそそぐ場所では、桜も梅も緋色のツツジも蒲公英も、眩暈のように咲き乱れ、それはもう一種のカーニバル。桜の印象も多少ち がったものでした。
さくらだといふ
春だといふ
一寸、お待ち
どこかに
泣いてる人もあらうに (山村暮鳥「桜」)
この優しい詩が、昨日、今日と、せつなく胸にせまります。なぜに人の心は願いとうらはらに毀れやすいものなのでしょうか。遠くで泣いている人の声が聞こ えます。わたしは、そうっとそうっと一本きりの蝋燭の火に語ってあげたいと思うだけ。。きっとひとときの春の迷いと信じて。
ポール・オースター
ス モーク&ブルー・イン・ザ・フェイス 新潮文庫
夏目漱石
文 鳥・夢十夜・永日小品 角川文庫
丸ビルでポール・オースターのドキュメンタリー映画を見た、という話は先日書きました(日記wordsの中で)。それで、ちょっとオースターの作品を読 んだりした時に「なんだか漱石みたいだなあ」と思って、それにルー・リードさんが出ていたのとで急に気になって(漱石とポーの美意識は似ているものがあ る、と前からそんな気がしていたので)、オースターの映画作品を立て続けにこのところ見てしまいました。私が知っていたのは『ス モーク』だけ。その『スモーク』の煙草屋さんにたむろしていた人々の番外編を描いた『ブルーイン・ザ・フェイス』がとても素敵で、ジャームッシュ 映画でお馴染みのジョン・ルーリーが煙草屋の前でだらだら演奏していたり、当のジャームッシュも、ルー・リードももちろん出てきて好き勝手なことを喋って て。。。これはイイです。またジョン・ルーリーの曲を聴きたくなりました。
それから、オースターが小説にしようか、映像にしようかと、長い間、あれこれやってやっと映画化したという『ル ル・オン・ザ・ブリッジ』は・・・これもハーヴェイ・カイテルがサックス奏者の役(音楽担当はジョン・ルーリー)、そしてルー・リードがルー・ リードのそっくりさん、という役どころで出演したり、ウィレム・デフォーが謎の男で出ていたり、みんなお友だち、NY派ばかりで撮った映画でしたが、オー スターは小説よりも映画になると本当にロマンチストになってしまうのですね。(ちょっと映画としては不評だったくらいにロマンチックな映画)
この映画の重要な小道具が、小さな石なのですが、そんな折、偶然お友だちが漱石についてメールを下さって、それで思い出して『夢十夜』の第一夜を読み返 してみたらこんなくだりがありました。死んだ女の言葉を信じて、墓をつくる男の話です。
自分はそれから庭へ下りて、真珠貝で穴を掘っ た。真珠貝は大きな滑らかな縁の鋭い貝であった。土をすくうたびに、貝の裏に月の光が差してきらきらし た。湿った土の匂いもした。穴はしばらくして掘れた。女をその中に入れた。そうして柔らかい土を、上からそっと掛けた。掛けるたびに真珠貝の裏に月の光が 差した。
それから星の破片(かけ)の落ちたのを拾ってきて、かろく土の上に乗 せた。星の破片は丸かった。長いあいだ大空を落ちている間に、角が取れて滑らかに なったんだろうと思った。抱き上げて土の上へ置くうちに、自分の胸と手が少し暖かくなった。
これって、オースターが描いた石だ、、、と思いました。漱石もオースターもなんてロマンチスト。漱石のこのような浪漫的な作品にはとてもいろんなものが 込められていて、もっともっと評価されて欲しいなあと想っているのです。
真珠貝の裏に差す月の光。。。男はいつまでもいつまでも彼女のことを想いつづけるのでしょう。星の破片の魔法を信じて。。素敵な作品を思い出させてくれ たお友だち、どうもありがとうネ。
シェイクスピア
ハ ムレットは太っていた! 白水社
ハ ムレットもしくはヘカベ みすずライブラリー
夏目漱石
道 草 新潮文庫
このところいろんなものを読んでいる。
漱石、シェイクスピア、・・『ハムレットは太っていた』という、初演当時の公演事情から戯曲の台詞を解読した話題の書。そして当時の王、ジェームズ1世 の父殺しの謎とハムレット劇の関係を解く『ハムレットもしくはヘカベ』。その他、ヤン・コットや石井美樹子先生の、悪魔学、妖精学、フォークロアからみた 研究本。16,17世紀の民間信仰や王族の内部事情を知れば知るほど、シェイクスピアの戯曲の細部の謎が解けていくらでも面白く読める。1600年に書か れたものだとしても、人物の身体感覚、精神医学についてはギリシアまでさかのぼることができるし、天国、地獄、生と死の認識は中世へ、さらにケルト時代へ とさかのぼる。そして登場人物の言葉の端々には、まさに「現時点」の経済事情や、政治状況が絡み合う。
文学は文学のみで成り立っているのではない。文学は時代の産物である。人間を取り巻く世界と人間とのかかわりや、人間同志の複雑な様相を、現実世界以上 に想像させうる芸術として、まだ小説が登場していなかったこの時代、演劇がその役割を担い、人々は劇場で世界を発見し、異界におののき、人間の底知れなさ を「読んだ」。そして、人々が小説を通して世界と人間を読むようになるまでにはさらに150年を要した。日本から漱石が英国へ渡り、文学を研究する時ま で、加えて150年の年月がある。
***
これはいつでも漱石が「明治」と「文学」を話題にする時、持ち出す話と同じだ。
シェイクスピアから、近代小説が市民レベルへと成熟するまでには300年の年月を要した。それを明治という時代は30年でやろうとしている。物質的繁栄 をどうにかこうにか形作っても、人間の知性、芸術に対する感性がその30年で同じように発達できるわけがない。そこに漱石の絶望がある。漱石の絶望は21 世紀初頭の今でも、たぶん変わらないかもしれない、、、この日本では。
***
とてつもない頭脳で西洋の300年どころか千数百年の歴史と文学を辿ってしまった漱石は、その時点で明治期の庶民の300年未来の世界から戻ってきた人 間と考えて良い。その認識がないと、漱石の『道草』を読む事は出来ない。これは漱石が死ぬ前年に書いた小説。しかも漱石には珍しい自伝的、私小説的作品。
漱石は子供の時に養子に出され、その後、養父母の離婚など大人の都合で実家へ帰されたり、また養母へ引き取られたり、そして結局、それまでの養育費を実 父が支払って実家の籍へ戻るという複雑な成長をした人間。だから人間としての理性や知性やプライドという価値に対する漱石の執着はおそろしいほど。いわば 理性と知性だけを糧に、金も縁もあてにならない世界を生き抜いてきたと言っていい。漱石は向上心を持たないプライドのない人間を軽蔑する。その上に、自分 は300年ぶん先の文明を見通してしまった人間として、学者として、これからの日本の学生と文学をなんとかしなくてはならない。「心」の通わない縁者同士 のしがらみにかかわっている時間はない。その態度が冷酷で不人情と受け止められる。
(57)
「みんな金がほしいのだ。そうして金よりほかにはなんにもほしくない のだ」
こう考えてみると、自分が今までなにをしてきたのかわからなくなっ た。
(63)
どっちかというと泣きたがらない質(たち)に生まれながら、時々はな ぜほんとうに泣ける人や、泣ける場合が、自分の前に出てきてくれないかと考えるのが 彼の持ち前であった。
「おれの目はいつでも涙が湧いて出るようにできているのに」
彼は丸まっちくなって座布団の上にすわっているお婆さんの姿を熟視し た。そうして自分の目に涙を宿すことを許さない彼女の性格を悲しく観じた。
ここでの「お婆さん」は自分の養母。縁を切り、行き来もなかった養母が学者になった漱石を頼って来る。注目すべきは、最後の行、「彼」ではなく、「彼 女」であること。お婆さんが「涙」に値しない人間であることを漱石は「悲しく観じた」のだ。自分の情けの薄さではなく、人間としてのプライドと礼節に欠け た「彼女」を。
そうして自分自身は「涙」=「漱石の考える本物の人間的感動・芸術的詩情」の現れを待っているのだ。少し前にここに書いた、漱石の「悲劇観」に通じる。 漱石に涙させる悲劇は世間一般の憐れを誘う悲劇とはかけ離れている。
***
『道草』を身の回りの出来事を書き記した、ありきたりな私小説と考えるのは間違っている。○○文庫版の解説には
「『道草』では、狂気も、宗教も、自殺も持ち出されていない。日常を写して、自然そのものになっている。高音部も低音部もとくに強調されていない。自然そ のものが尊重されている。この自然のなかで、漱石は、いちだんと高所に立って、健三をはじめ、登場人物を穏やかにながめている。これは、作家としての成熟 を意味する。」とあるけれども、いったいどう読んだらこんな感想が生まれるのか理解できない。日本のリアリズム文学への認識がいかに形式的、表面的で、い かに「情」に頼り、「わかりやすさ」に頼ってきたかが、ここでも解る。『道草』だと漱石は言うのである。自分の文学論と文学作品へ費やした日々、「生活」 や「人情」でどこまでも自分を煩わせる縁者との日々が、生涯において『道草』に終わったと言うのである。でも「日常を写し」て「作家として成熟」してると 読めるんだそうである。。本当に、、、近代日本文学を掘り下げていくのがつくづくいやになってくる。。漱石じゃないけど胃が痛くなってくる。。でもそっか らはじめなきゃ、もういちど「わかりやすさ」と「リアル」を見直さなきゃ、文学はどうにもこうにもしょーがないだろう、、、という気がしている。別に小説 というメディアが映画に
変わろうとゲームに変わろうと構わない。でも文学を愛せなきゃ、きっと人も世界も愛せない。愛するという意味は難しい。
キャスリン・レイン
キャ スリン・レイン新詩集 世界詩人叢書 (9)
今朝は強い風で地上の霞みが吹き払われて、遥か地平線上に山並みが望めるのでした。ぎんぎつねの群れのような雲の帯のあいだに、うすい青空がのぞき、ど こからか蝉の鳴き声が空に向かうようにわきあがってくるのでした。
本当に、日々の気象条件はいちどとして同じ事がなく、そのたびに空と雲と光の演出の違いが、この街の色合いをまったく変えてしまうのに驚きます。山が見 える、いろんな形をした雲が空を翔けている、それだけで幸せな驚きにつつまれます。
そして、今朝はこのベランダから一頭の揚羽蝶が舞い立っていきました。。前の住まいから運んできた蜜柑に、卵がくっついていてそれが孵り、5つの蛹に なっていたのです。毎朝様子を見ていたのですけれど、朝食の用意をしている間に蛹から抜け出し、あっというまに美しい薄黄緑と黒の模様の羽を持つ蝶が生ま れていました。先にも書いたように、今朝はとても風が強かったので、羽を乾かす間、何度も何度も風に吹きさらわれそうになるのを細い脚でしっかりと小枝に しがみついていて、、、。「がんばれ〜」と声を掛けながら窓辺での食事を終えた頃、羽化して2時間程経った時、ひらひらと風に乗って旅立っていきました。
「木の葉が散るって なんてすてきなんでしょう」
とあなた
一枚の葉が ひるがえって くるくると
見えない風に 舞いあがり
なんて軽やかに 大地へと
いつまでも 飛びまわり
あなたは 落ち葉で忘れる
老いた年と さみしさ
からだの 衰え
不自由になった手 おとろえた感覚
思いやりのない世の中と その苦痛
あの小さな木の葉は あなたにとって
何のしるし? あなたと
見えざるものとの間の 黄金の約束?
きれいな 純粋の国からの
心への み使いの者?
「キャスリン・レイン新詩集 佐藤健治 訳/書肆青樹社」
以前、教えていただいたキャスリン・レインの詩集が図書館に届きました。『ブレイクと古代』という本も近くの図書館にあることがわかりましたので、今度 のスクーリング後に読むのが楽しみです。折り良く、しばらく前にブレイクの詩画集がAmazonから届いていたので、そちらと一緒に。。教えていただいて ありがとうございました。
キャスリン・レインの詩・・・なんていい詩でしょう。電車の中で読みつつ、涙ぐみそうになるのをこらえました。。。言葉と想像力と世界への愛情で文学の 世界を生きてきた人たちが、老年を迎え、この現在の世界の有り様に心を痛め、だが残された時間では出来る事は余りに少ないこともすでに見通して、辛い思い を抱えたままで人生の終りを迎えようとしていることに、申し訳無さしか感じることが出来ません。彼らの警鐘は何だったのか、人々の耳は何を聴いたの か、、、それでもなおキャスリン・レインは空から舞い降りる木の葉を、み使いの者としてささやかな希望を託します。その精一杯の願いに何をこたえたらいい のでしょう。
「この世への漠たる不安」を抱えて命を絶った芥川の河童忌は24日でした。昭和の不安は、、、今、、、、。
P・B・シェリー
シェ リー詩集 新潮文庫
自分で詩を書いたり、小説を書いたりする日々が何年も続いてから、それ以降になってますます惹かれていくようになった詩人にP・B・シェリーがいる。
『無神論の必然性』を説いてオックスフォードを放校になった「気違いシェリー」。国家の圧政を憎んだ「反逆児」シェリー。そんな拳を掲げて叫びを挙げる シェリーも好きだけれど、太陽と月と風と鳥と花々と、人が人に恋焦がれてしまう驚くべき自然と愛の魔法をうたいあげたシェリーの情動に、胸が高鳴る。
シェリーの妻は幼くして結婚したハリエットと、のちに妻になりあの『フランケンシュタイン』を書いたメアリー・シェリーのことと、そしてメアリーへの愛 に苦悩したハリエットの自殺、、、というところまでは僅かに知っていたけれど、他にクレア、ジェイン、エミーリア・・・?? どなたかシェリーの生涯を映 画化してくれないかしら。。
ファーディナンドとあなたが愛の行路をはじめてから
くさぐさの変遷がありましたが、
エアリアルはいつもあなたの歩みを追い
あなたの御意に仕えてまいりました・・
「With a Guitar, To Jane」星谷剛一訳 新潮社世界詩人全集(絶版)
ここでうたわれるファーディナンドはシェリーがこの詩を捧げたジェーンの、夫。そして妖精エアリアルは愛の魔法を詠うシェリー自身。これらの人物はシェ イクスピア最晩年の作品『あらし』の登場人物。そして、この詩のわずかに後、シェリーはジェーンの夫とともにヨットで航海に出て帰らなかった。。詩人は自 らの死を感じとっていたのだろうか。背筋がふるえる想いがする。
ジョン・キーツ
新 訳キーツ詩集 世界の詩 33 彌生書房
E・A・ポー
申し訳ありませんあなたはカードの詩を残している
今日は少しまとめて英詩を読んでいた。意味はもちろん翻訳に頼らなければならないのだけれど、言葉を声にしてみればその美しさは理解する事ができる。 ジョン・キーツの詩をいくつか読んで、本当に音楽的に美しいのだなあ、と感じた。有名なバラッド「LA BELLE DAME SANS MERCI」(つれなき美女)はだいぶ前から原詩で読んでいたけれど、あとは翻訳だったから。
翻訳ではシェリーの意志的な詩に心ひかれるけれど、声にすればキーツの方がずっと美しい。シェリーが『エアリアル号』で水難死した時にポケットに入れて いたのがキーツの詩集だったのだけれど、キーツを愛したのが理解できる。
声にして美しさに気づかされるのは、ポーの詩もそう。ポーはキーツを読んだだろうか。シェリーの詩はきっと読んでいただろうと思う。ポーは詩の音楽的効 果をとても重要視していたから、日本では萩原朔太郎がポーの詩を愛したし、素晴らしい童謡をたくさんつくった西條八十によるポーの『大鴉』の翻訳が私はと ても美しいと思う。朔太郎は、自分でもギターを弾いたそうで、ギターを抱えて物憂げな表情をしている端正な朔太郎の写真を見た事がある。そうだ、ポーも 『アッシャー家の崩壊』の中で、ロデリクがずっとギターで即興曲を弾いていると書いている。
今までこんな風に詩人と詩人の影響関係をあまり意識してみた事がなかったので、初めて気づかされることがいっぱい。。そうだ、今月発売になるはずだけれ ど、Jeff Buckleyの「Live At Sin-E」のアルバムにはいくつか彼の朗読が入っているそう。。初めてジェフの歌を聴いた時、「この 人ってポーが好きなのかもしれないなあ・・」と、ふと感じたのが、本当にポーの詩を朗読していたと知った時にはとっても驚いて(wavesに載せている CD)、その通り、彼の声によるポーの朗読は大変に美しいのでした。だから今度の「Live At Sin-E」で彼自身の詩を朗読するのが聴けるのはや はり楽しみ。彼の短い生涯と、水の事故で亡くなった事はシェリーの死にも重ね合わせて語られたりもしたけれど、ジェフ自身もミュージシャンであると同時に 詩人でもあったのだろうと思う。朗読が遺されて言葉の音楽を聴く事ができるのも、私たちに残された幸せ。
キーツの「ナイチンゲールに寄せるオード」の最終スタンザを。(翻訳はいくつかの訳を参照しながら私の言葉にしてみました)
Forlorn! the very word is like a bell
To toll me back from thee to my sole self!
Adieu! the fancy cannot cheat so well
As she is fam'd to do, deceiving elf.
Adieu! adieu! thy plaintive anthem fades
Past the near meadows, over the still stream,
Up the hill-side; and now 'tis buried deep
In the next valley-glades:
Was it a vision, or a waking dream?
Fled is that music: ーDo I wake or sleep?
淋しい! その言葉は弔鐘のように
私を君から孤独な私へと引き戻す
さよなら! 空想は風評ほど上手には
ごまかしてくれない、騙し屋の妖精よ。
さよなら! さよなら! 君のかなしげな歌は消えていく
ちかくの牧場を抜け、しずかな小川をこえ
丘をこえて。そして 今や となりの谷の
森の間の空地へと深く埋められたのだ。
あれは幻だったの、それとも現の夢?
あの音楽は消えてしまった。―私は目覚めているのか、それとも眠っているのか?
シェイクスピア
タゴール
昨日の朝、地震の報道を見ながら新聞を開いて「ああ、サイードが死んでしまったよ!」と思わず声を上げた。死亡記事を読んでいるうちにニュースが変わ り、「米調査団の中間報告ではイラクでは大量破壊兵器の存在が確認できなかった」と。。。だから初めから待てと彼らは声を上げて来たじゃないか・・。怒り に、いつからか呆れが入り混じって、最近では馬鹿げた冗談となって朝の出勤前の会話がつくられる。
アメリカでずっと声を上げてきた方々が、この終わりの見えない暴力の中で何を考えていらっしゃるか、その声を聞かせていただきたいひとり、マイケル・マ クルーアさんのサイトからニューズレターが届いていた。新しいインタビューが載っているようだ。
以前、アドレスを入力してからニューズレターがなかなか届かないものだから、問い合わせのメールを出してみた事があった。日本からのたどたどしい英文の 問い合わせに、管理者の方がニューズレターがまだ準備中であることを知らせて下さり、「He is deeply distressed by the situation in the world today. (So am I)」とお返事を下さった。マクルーアさんの新しいリーディングのCDも出るらしい。私にとって英語の言葉の壁は依然高い、でも何かは見つけ出せると信じ ている。
「人は皆、泣きながらこの世にやって来たの だ・・・
生まれ落ちるや、誰も大声挙げて泣叫ぶ、阿呆ばかりの大きな舞台に 突出されたのが悲しゅうてな」 (福田恒存 訳)
というのは『リア王』の中の有名な台詞。
「すべての嬰児は神がまだ人間に絶望してはいな いというメッセージをたずさえて生まれて来る」
(山室 静 訳)
は、タゴールの言葉。
***
今朝は穏やかに晴れています。急に寒くなって、そして冷たい雨が続いたりして、そんな気温差のはげしい時に体調を崩される方が増えているようです。どう ぞお気をつけて。
抱擁/A・S・バイアット
抱 擁 新潮文庫
仕事の行き帰りの電車で、少しずつ少しずつA・S・バイアットの『抱擁』を読んでいる。もうすぐ上巻が終わるところ。『抱擁』という艶かしいタイトルも 原題では『Possession』(所有)という硬質の言葉で、この『抱擁』という邦題はどうも似つかわしくないような気がしていたのだけれど、それが何 故『抱擁』なのか、次第にわかりかけても来た。
所有、が意味するものがこの小説には至る所に現れる。文学の研究者がその作家の隠された謎を自分だけの発見として「所有」したいと願う欲望。作家は表現 したい対象を、自分だけの言葉で作品化し「所有」することを願いつつ、じつは、どこまでいっても言い尽くしがたいが為に言葉を永久に紡ぎ続けずにはいられ ないという、表現欲求の中に作家が「所有」されているパラドクス。
あるいはもっとシンプルに、愛する人の影に「所有」されてしまった心、自分の全てを「所有」されたい苦悩、生きている現実のその人を腕の中に「所有」す るひとときの悦び。
***
・・・言葉が私の人生の総てであったし、現在も そうなのだと言う事を。これは常に巨大な<絹の重荷>を抱えている蜘蛛の欲求にほかなりません。彼女は糸 を吐かずにはいられないのです。此の絹の網こそが彼女の人生であり・・・(第十章 栗原行雄訳)
言葉であれ、音楽であれ、絵画であれ、造形であれ、人間には絹の網を、生存目的として獲物を捕らえるためではなく、芸術のためだけに創り出さずにはいら れない表現欲求、創造欲求があるのだろう。形になるか、それが人に認められるか、お金に還られるか、それは副次的なもので、糸を吐かずには自らの<絹の重 荷>に自分が潰れそうになってしまう、それが人間。
雨上がりの朝、枝葉の透き間にきれいな幾何学模様の網をこしらえて、そこに朝露がちりばめられ、日差しにきらきらときらめく。網をこしらえた位置、網目 の大きさ、角度、それらと、朝露と光のプリズムが調和する造形は、きっと魔法のように変幻するだろう。
網の中心でじっとしている蜘蛛が、食欲のためばかりでなく、網の造形の美しさのために働き、朝露のきらめく自分の網目をとても満ち足りた気持ちで眺めて いるのだとしたら、なんだかとても愛しくすばらしいと思える。ああ、今朝は美しい幾何学模様が編み出せた、とか、このレースと朝露の真珠はなんて綺麗なん だ、とか、蜘蛛がそんな風に幸せだったらいいな。
・・・昔から蜘蛛はキライじゃないのです。実家の庭は人の通り道まで、デッカイ網を掛けられたりして、夜うちに帰ると顔にペタっと絡まったりするけれ ど、あんまり気にしない。壊されてもきっとまた蜘蛛はせっせと果てしなく幾何学模様を編み続けるのでしょう。
ジェニーの肖像/ロバート・ネイサン
ジェ ニーの肖像 偕成社文庫
絵のない絵本/アンデルセン
絵 のない絵本 フォア文庫
色づいた葉を見たくなって、かさこそという枯葉を踏む音を聴きたくなって、二日続けて公園へ出掛けました。金曜日は独りで、週末は友と。
以前ここにも書いたけれど、信州で見るような、燃え立つような赤に色づく紅葉は、冷え込みの少ない都会では見られません。やさしい茶色と黄色の印象派の 絵のような木々が、薄日に柔らかく照らされていました。
***
素敵な本を二冊。。
ロバート・ネイサン著/山室静 訳の『ジェニーの肖像』
・・・わたしが苦しんでいるというときには、寒 さや飢えのことをいっているのではない。芸術家にとっては、冬や貧乏があたえるものよりもちがった種類 の、もっとたちのわるい悩みがある。それはむしろ、心の冬に似ている。そういうときには、芸術家の才能のいのちが、芸術家の作品の生命の汁液が、こおりつ いてはたらかなくなり、死の季節にとらえられているかのように思われるのだ・・・
そんな若い画家が出会った、不思議な少女。その少女はまるで妖精のように、ほんの時折あらわれるだけの存在で、、でも少女は画家に大切な魂をくれるので す。
あなたが、わたしに会いたがっていらっしゃる気がしたの・・・と言って彼の前に確かな存在として現れてくれる、画家と少女の美しい時間。
止めることの出来ない時間の中で、たった1日半のふたりきりの時間。。
***
もうひとつは、アンデルセンの『絵のない絵本』。たくさんの版が出ていますが、いわさきちひろ画、山室静 訳のものがあると知って取り寄せました。
屋根裏に住む貧しい画家のもとへ毎晩おとずれて月が語りかけるいくつもの物語。
「今夜とても月がきれいだから・・」とチャボさんが唄ってくれるのを聴いていたら読みたくなった本。チャボさんや、清志郎さんや、他にも、、、お月様を テーマに唄い、本を書き、男の人って心優しいロマンチストですね。
山室静さんの訳はあたたかいです。やはりきっととてもロマンチストな方だったでしょう山室さんの、透明な魂が見出した物語。それはまだまだ集めきれない ほど遺されています。
聖書物語/山室静
聖 書物語 ドレ画 社会思想社
古書検索システムを使って、地方の古本屋さんへ注文した本が一昨日、届きました。
現在は絶版になっている、『ドレ画 聖書物語/文 山室静』(社会思想社)。山室さんの「聖書物語」というのは、教養文庫で現在でもあるのですが、ドレ の挿絵を111枚、全ページに使ったこの大きさ(B5版ほど)のものは画集といっても良い美しいものでした。原価の約半額というのも有難かったし。
私はキリスト教徒ではないし、著者の山室さんもそうではなく、「西洋の文学と文化の理解のために不可欠な聖書を、物語のようにわかりやすく」という目的 で最初の「聖書物語」を書かれたのでしたが、このドレ画の「聖書物語」(1979年)のあとがきにはこう書かれています。
・・前には聖書の学習を、人類にとって日本人に とって必須の必要事と考えていたと言えるが、今ではむしろ逆に、聖書に現れたような唯一絶対の神を後楯に して、不退転の権威をもって世界に臨むその人間観社会観の欠陥ないし毒が、ひどく私には目についてきている。
79年に山室さんにこう考えさせた「欠陥ないし毒」とは如何なるものだったのだろうか。
昨今、わたしたちが考えさせられざるを得なくなった世界の出来事の数々、神の名を掲げた争い、、、。山室さんの事はまだ殆ど勉強不足だけれども、この慧 眼とバランスを保った思想を、私は頼りにしたいと思う。
北村透谷、山村暮鳥も、当初キリスト教に深く傾倒し、その思想を拠り所にした文学作品を著し、そののち、ひとつの絶対的な神、という思想から少しずつ離 れていく経過を辿ったようだ。無神論を唱えたシェリーも、キリストを唯一神と考える事は否定したけれども、人間が拠り所とする力をギリシャの神々に求めて 作品を書いたりしたのだから、「信じること」「拠り所にすること」それ自体を否定したのではなかった。信じること、それ自体は美しい。それが「唯一・絶 対」ではないことに気づくこと、それ以外のものを理解し、認めること・・・ブレイクは・・? イエイツは・・? 思いが結びつき拡がっていく。。。
アーレントとハイデガー
アー レントとハイデガー みすず書房
アー レント=ハイデガー往復書簡
ボリス・パステルナーク
バ リエール越え 1914‐1916―ボリース・パステルナーク詩集
『アーレントとハイデガー』このふたりの関係については、多少の関心がありました。片や「存在と時間」を纏めつつある最盛期のハイデガーと、彼の授業に 出ていた18歳の美しい女学生。ナチス支持に傾くハイデガーと、彼を師として男性として愛するようになったユダヤ系のアーレント。彼らの別離と和解、半世 紀を超え、生涯にわたる親交。
願わくば、戦時下の状況や、政治思想の相克を経て、当初の熱にうかされた感情から、長い年月と、たくさんの手紙を通して、互いが互いを高め合って、そし てハイデガーの「転回」につながるような、より高い次元への超越というか、許容というか、そこへ至る過程をふたりの手紙のやりとりから見出せたらいいな あ、と思っていたのですけれど・・・
エティンガー著のこの本が出た95年頃には、研究者の間にかなりのセンセーションと反発が起こった、と訳者は書いていますが、それもうなずけるような、 良く言えば人間的、悪く言えば余りに通俗的な相手への耽溺の様子や、関係者への(悪口)のようなものまでが取り上げられている。ただ、この本は正式な書簡 集ではなく、
「最初の頃の手紙は、あか抜けして抑制のきいた精緻な散文で・・」とか
「のちの手紙は・・月並みな感情をあらわに示している」とか、著者の判断に拠ったこういった文章からではふたりの関係を読み解くことは出来ない。
ところがつい先日、みすず書房から別の書簡集が出版されました。やはり関心は無いことはないけれど、今回読んだ本の中の、アーレントの以下のような手紙 の引用を読んでしまうと、なんだか失望してしまった感もある。
「・・・それにこういう問題では、私はほとんど 奴隷のようにあなたの顔色をうかがってしまうからです。なにしろ女は――むかしからいつでも――自分の愛 が、もしくは自分の愛の過剰が、相手にうるさがられはしまいかと不安でたまらないのです」
こうして始まった人間関係は、もはやより高次へと自己を(そして相手を)進めていく力は無いように思えるから。。。そこにあるのは防御ばかり、だと。
***
雪が降る 雪が降る
落ちてくるのは雪ひらじゃなく
大空が継ぎ布のあたった古風な婦人コートを着て
地上へ降りてくるようだ
ああ、本当に! パステルナークのこの詩のような風景が、おそらく今の季節にはふさわしく、懐かしく思えたりします。。けれども、ここ東京ではまだ銀杏 の樹は黄色い葉っぱが残ったままで、私にはどうしても生まれ育った地の記憶があるものですから、これらの葉っぱが総て落ちて、裸木が天を突き刺して、朝霧 がきらめくようにならないと、本物の冬ではないような気がしてしまうのです。だけどこの数日、冷たい強烈な北風が、空の塵を払って、ロシアをほんのちょっ ぴり思わせる蒼天を見せてくれます。そして不意に私は、ああ、本当にいつのまにか冬だったのだ!と。。世間がとっくに一年の境目へと急速に動き出している ことに気づいて、自分の身の今年を省みたりするのです。
人生は待っていてくれないからだ
ふりかえるまもないうちに――クリスマス週間
この間隔は 短く ほら
もうそこにたちまち新年 「雪が降る」工藤正広訳より
智恵子抄/ 高村光太郎
智 恵子抄 新潮文庫
W・B・Yeats
イェ イツの詩を読む 金子光晴・尾島庄太郎共訳 思潮社
人っ子ひとり居ない九十九里の砂浜の
砂にすわつて智恵子は遊ぶ。
無数の友だちが智恵子の名をよぶ。
ちい、ちい、ちい、ちい、ちい――
砂に小さな趾あとをつけて
千鳥が智恵子に寄つて来る。
(「千鳥と遊ぶ智恵子」)
夕方、FMを聴いていて、ソロになって初めて語る吉井(YOSHII LOVINSON)さんの口から『智恵子抄』の名が聞かれたので、先程、古い本を開いてみました。それで、「ああ・・」となんとなく自分なりに理解できま した、「鳥と話したい・・」(「STILL ALIVE」)という部分、それから、鳥の声が歌われるところなど。。
大正〜昭和の詩心と、ROCKな言葉が融合する才能。3年という時間を経て、再び吉井さんの歌が聴かれるというのは本当に、嬉しいことです。歌詞の才能 ももちろんですけれど、吉井さんの声が、言葉以上に優しさや、怒りや、抗いや、苦しみを語る、、、時に聴いているのが辛いほどであるのは、街で流れる POPソング向きではないかもしれませんが、そんなことは承知の上でしょう。。そう言えば今日はThe Yellow Monkeyの誕生日でもあって、、心からHappy Birthday...
***
鷹はぐるぐる飛びながら旋回の輪をひろげていって
鷹使いの声が聞こえなくなる。
ものごとはばらばら、中心は保てない。
純然たるアナキーが世界にとき放たれた。
血にそまった潮があふれ流れ、いたる所で
純真無垢の儀礼がおぼれ死ぬ。
最良の人たちはもう自信がない、
最悪の人たちは強烈な情熱に満ちている。
(W・B・Yeats / The Second Coming『再来』 金子光晴・尾島庄太郎共訳)
詩を書く方法の本
この詩は、イェイツが第一次大戦後に発表し、来たる時代を予言的に表したものだという。「再来」とは、イエスの再臨を言うのではなく、この第一節の終り 2行にある、「最良の人・・最悪の人・・」から、イェイツの暗い予言が読みとれるでしょう。
今年の終りにかけて、イェイツの詩が頭を占めるようになってきました。そして、導かれるように、大江健三郎さんの、イェイツやブレイクやダンテについて 思いをめぐらした小説を、たぶんこれから少しずつ読んでいくことになるのでしょう。たぶん大江さんがイェイツやダンテを通してこの世界のことを考えようと されていた80年代の終り頃から、大江さんにはすでに予感はあったのだと思います。世界の混沌と争い、そしてThe Second Comingが如何なるものなのか。。予感が小説家を動かしているといってもいいのだと思います。私の感じとるThe Second Comingは・・・まだ霧の中。来年の課題になります。。
抱擁/A・S・バイアット
新年、といってももうすっかり日々の仕事は動き出しましたね。
2ヶ月前から通勤電車などで少しずつ読んでいたA・S・バイアットの『抱擁』を新年にやっと読み終えました。そして、やっと映画のビデオも観る事ができ ました。英国ヴィクトリア朝の著名な詩人の、隠されたひとときの愛についての物語。うまい説明ではありませんが、漱石は一般に恐妻家だったと言われていま す。小説では深刻な三角関係を多く描いた漱石ですが、本人の身辺ではそのような話は残っていません。例えばそんな大作家のラヴレターが発見されたとした ら・・・やはり日本でも文学史を書き換える重大事件になるでしょう。学者たちはそれこそ小説の解釈を根本からひっくり返されることになります。
『抱擁』はそんな物語です。ラヴレターを発見したのは若い研究員。自分が心酔している作家の秘密を思いがけなく手に入れることになったら、必ずや自分の 手で(教授などには知らせず)真実を探し当てようと思うにちがいありません。小説はそれらの手紙、関係する人物の手記、詩文などのテキストの解読など、こ の研究員たちが読み込んでいく文書をすべて読者も読みながら、愛の秘密を解いていくものです。バイアットは『薔薇の名前』の解説も書いた学者だそうです が、学者の権威や欲も絡んだサスペンス、女性の学者(バイアットも女性)の学会の立場など、アカデミックな世界の内側も詳細に描いています。。。だから、 それを映画化するのはやっぱり難しい。
大好きなグィネス・パルトロウが女性学者を演じて、確かにお嬢様育ちの感じはあるものの、グィネスはどうしても根にあっけらかんとした可愛さがあって (そこが好きなんだけど)原作のがちがちのフェミニストぶりはなく、ラブレター発見者の若い学者とすぐに恋に落ちてしまうあたり、ERのお医者さん達や 10時台のドラマじゃないんだから、、、とちょっと思ってしまいました(笑)。原作の方は、ぶ厚い上下巻の最後の最後まで、このふたりどうなってしまうの かしらと、どきどきさせてくれます。
小説は今の時代、長いものを読むのは時間的にもかなり苦痛だったりしますけれど、誰にも明かす事の無かった詩人たちの愛を、生涯を通して追っていくに は、共に活字を追う長い長い時間が、相応の満足を与えてくれるものだと実感しました。
今は、夏目漱石の未完の小説『明暗』を読んでいますが、これも長いですね。。
でも今年はたくさん本も読みたい、でもいろいろもやりたい。。。それが現代人の苦痛です。
加 山又造 花とけものたち 日経ポストカードブック
萩 原朔太郎詩集 新潮文庫
金曜日。大好きな散歩道を通って、遠回りして仕事へ。
左右には冬枯れの木立が並び、その根がしっかりと土を支え、上には柔らかな厚い落ち葉がふくらみをつけてこんもりと盛り上がり、一方、人々が往来する真 ん中はゆるやかに丸く窪んで、、、そんな自然のままの凹凸の道を歩くのが心地良い。舗装のされていない道を歩けるのは、公園の中くらいだけれど、木立の高 みで小さな鳥の声がする。木々の間の黄金色の陽だまりで漆黒の鴉が身づくろいをしている。鴉は本当はとても美しい鳥。
***
きょう、『加山又造展』を観に行きました。百貨店のギャラリー、しかも連休とあって大変な人出でしたが、大規模な屏風絵に加えて、着物、陶器の絵柄な ど、天性のデザイン感覚を楽しむことが出来ました。この方のお父様は和服の図案家だったとのことで、ああ、なるほどそれでこのように天才的な様式美が生み 出せたのだろうと、納得。
そうして以前、セキ美術館で出会った、猫と蝶の絵に再会。猫のシリーズは他にもいくつかの構図がありますが、まっすぐに蝶を凝視したこの図柄が最も緊張 感があって好き。と言っても、蝶をどうにかしてやろうという緊張感ではなくて、はたはたと羽を翻す不思議な生き物にびっくりしている愛らしい緊張感。
私はこの方の動物の絵がとっても好きです。「花とけものたち」のポストカードブックがあったので嬉しくて買って来ましたが、ベルナール・ビュッフェを思 わせる麒麟、アンリ・ルソー風の鹿たちと緑濃い森、ブリューゲルの冬景色の中の狼や鴉、そしてビュッフェ風? それともキュビズム? という岩石のような 駱駝たち。でも、でも、何よりも好きなのが、可哀想なカナリヤ! でもカナリヤの絵はこのポストカード集にも載っていないし、なかなか画集にも載っていな くて、5万円もする全集の「動物」の巻にありました。鴉の絵も好きなんですが、ギャラリー脇で販売されていた鴉の版画は40万円でした(買えない)。。。
一緒に観に行った友に「カナリヤが欲しいよぉ〜〜」と騒いでいたら、「ティム・バートンの絵に似てるよね、だから好きなんでしょ」と言われました。。 あ・・・本当に、そうかも・・・そうかもしれません。せつない、みすぼらしい、でも愛らしいカナリヤなんです。
***
重たいおほきな羽をばたばたして
ああ なんといふ弱弱しい心臓の所有者だ。
花瓦斯のやうな明るい月夜に
白くながれてゆく生物の群れをみよ
そのしづかな方角をみよ
この生物のもつひとつのせつなる情緒をみよ
あかるい花瓦斯のやうな月夜に
ああ なんといふ悲しげな いぢらしい蝶類の騒擾だ。
(萩原朔太郎 「月夜」)
*騒擾(そうじょう)
朔太郎も、蝶も猫もたくさん詩にうたっていますね。
不意に、聴きたくなって、Jackson Browneを聴いていました。どこかへなくしてしまったと思っていた「HOLD OUT」のテープが見つかったので。。この歌の歌詞もとても好きだったけれど、今はテープしかないので全部は思い出せません。「Late for the sky」も「Running on empty」も、ある時代の私にはとても重要なアルバムでした。今年の来日が決まったのですね。
彼の詩ではありませんが・・・
ぼくもまた愛していた そして彼女はまだ今は
生きている おそらくは 時は過ぎてゆく
そして何か 秋のようにおおきなものが 或る日
(明日ではない おそらくは ひどく後になっていつの日か)
生のうえで 空焼けのように 燃え始めるだろう
(パステルナーク「物語詩から」より/ 工藤正廣訳)
これは、恋の詩だけれども、恋にかぎらずとも、ときにこんな日が訪れます・・・通り過ぎて 立ちどまって 振りかえり また歩き出す。。振り返る、どう しても振り返ってしまう、その時の弱さは、だけど誠実な嘘の無い弱さでありたい。。。あるいは、そ知らぬ顔でひたすらに歩きつづける、だけどそのしばらく のちには、この詩のように、空いっぱいに拡がった赤に全身を曝すことになるのを自らに命じていよう。。
いろんな影を呼んでしまう心、いろんな影にどうしようもなく心うばわれてしまう私は、それらいろんな影と自分の影と、そして何よりも今現在のあなたの影 とに結ばれてここにこうしているのだと、そう信じていたい。古代人の見た影を「御影(みかげ=おかげ)」と感謝したように。振り返ることは現実と未来への 背信ではないのだと、あなたも、空も、そう思ってくださるでしょうか・・・
・・・一寸、こんな感情に囚われていたためか、今朝は朝寝坊をしてしまいました、いけない、いけない。
「最 後の小説」 大江健三郎 講談社文芸文庫
ここ数日、西の空、ビル群の光の玩具箱の上空に、一片の薄いオレンジのような月がきれいです。夜半までには消えてしまうその月を、何度か見に窓辺に立ち ます。
いろんな思いが交錯していて、、、ここ数年、もしかしたら十数年にわたる心の深い所のこだわり、とか、自分の立ち位置、とか、世界観、とか、そのような 根幹に触れるいろんな文章や、人の言葉を、ここ数日じっとじっと抱き締めています。
年末から身近に置いてあった本、大江健三郎さんの「最後の小説」から・・・
文学者は世界・社会について、ある結論を確 言するということはしない。そのかわりに、こういう疑問が世の中にあると提出することが、小説家の役割な のだ。そして、マルキシズムであれ、イスラムの教義であれ、ファシズムであれ、そういう全体的な社会原理によって人間が締めつけられている時代には、それ を相対化する悪魔の笑いが必要だ。あるいは逆に、すべての人間が絶望している社会にとっては、恋人たちがふたりで走りながら笑う、意味もない笑い声のよう な天使の笑いもまた回復されねばならない。そのように声を発するのが作家の仕事だというのです。
これは大江さんが、漱石の『明暗』を解読するにあたり、漱石に近い作家として、ミラン・クンデラの言葉を引き合いに出して書かれたもの。
そして、以下は、おそらくロン&ヤス、ロン&ゴルビーの時代に書かれた発言と思われますが、、、
しかし文学が同時代と明日にかけての自国民の、 個に関わる、積極的なモデルを作りえぬということは、なにより端的に、日本および日本人の現在の、否定し がたい衰弱をあらわしているのではないでしょうか?
日本人が、というより、私たちのようなその頃の20代を含めた日本人の多くが、一気に考えることをやめた80年代、、、私は80年代をそう考えている。 あれから15年余り、、果たして大江さんの言葉通り、日本は確かに衰弱しました。日本が先端だと多少自負していたビジネスの世界を通じて見れば、既に中国 や韓国やインドなどのアジア諸国に追い抜かれ、、、
競争力のことを問題視しているわけではないのです。富とか貧しさが文化の指標ではないのですから。。
大江さんは、漱石の未完の遺作『明暗』の結末を、ダンテのごとく、オルフェのごとく、暗の世界をめぐったのちに、ふたたび明の世界へ帰り着くはずだった のではないか、と、この時点では積極的な予測をしておられます。それが大江さんご自身の文学へのひとすじの希望でもあるように。
それから時代が過ぎ、クンデラの最も新しい作品『無知』は、いつだったかここにも書きましたけれど、亡命作家クンデラが、長い月日の末に自由化された祖 国の姿を描き、作家として、人間としての「無知」を突きつけられた痛切な作品でした。大江さんの漱石とクンデラの対比を読み、あらためて漱石が『道草』を 書いたことと、クンデラが『無知』を書いたことの痛々しい共通点を感じるのでした。道草も、無知も、自分の追求してきた世界が消えてしまうような、哀しい 言葉なのですもの。。
私はつらい思いでいるのではないので、どうぞ安心してください。
漱石が手のひらにそっと抱いていた小さな石、百年の末にふたたび出会えることを願う星のかけら、、、。
そう、ちょうど下でポッサムさまが書いて下さったルーの詩「if you were gone you'd still remain」そして、「in imagination I could touch」・・・このことをずっと抱き締めて、これから進もうとしているのです。
茶色の朝/フランク・パヴロフ 大 月書店
昨年の12月に発売になったばかりの本で、『茶色の朝』(フランク・パヴロフ著)というのがあります。
仏でベストセラーになったものだそうで、作者は発売当時、若い人に多く読んで欲しいと印税を放棄し、1ユーロで販売したとの事です。日本版には、なぜか ヴィンセント・ギャロによる挿絵が「Brown Morning」というシリーズとして付けられています。(ギャロの映画『ブラウン・バニー』の Brownとどういう繋がりがあるのかは映画を観ていないのでよくわからないけれど)
或る日、主人公らが飼っていた犬と猫を処分しなければならなくなった、という話をカフェでするところから話がはじまります。彼らの飼っていたのが「茶 色」じゃなかったからです。「茶色」なら、飼ってもいいのです。政府がそう決めたからです。なぜ茶色・・?と訝りつつも、「何色だって猫に変わりない し・・」「茶色の方が丈夫だって科学者が言うんだし・・」と、諦めてしまう彼ら。そして、次第に政府の「茶色」の統制がすすんでいく。。。
***
仏下院による、学校でのイスラム教徒のスカーフ禁止法案可決、、、これはどうしても解せない。ユダヤ教の帽子も、キリスト教の大きな(小さければいいの か)十字架も。。
宗教と教育の分離を掲げればこそ、何を身につけていようと気にならないのでは・・?
その人の意思にもとづくものであれば、スカーフとターバンと剃髪に法衣とチマチョゴリが一緒に教室に集っていいじゃないか。
『茶色の朝』が書かれたのもフランス。。。外国人移住者を排斥しようとしているオランダ。レイシズムが急速に広がりつつある。短い絵本から著者の危機感 がつたわります。
指 輪物語 / J.R.R.トールキン
指 輪の力―隠された『指輪物語』の真実 / ジェーン・チャンス
デ イヴィッド・デイの著作リスト
レ イモンド・E・フィーストの著作リスト
(リフトウォーサーガシリーズの第1作は『魔 術師の帝国』です)
土曜日にレポを郵送して、その後いきなり平安時代から頭をシフトチェンジして、『指輪物語 二つの塔』を読み耽り、今朝は早起きして映画館行って来た後 は、ずっと『王の帰還』読んでいました。
映画の予告編とか、TVの特集とか全然見なかったし、原作も、読むのをやめていたけれど、かえって良かったです。
映画は驚きと感動の連続・・・でも、やっぱり<彼ら>の事がもっともっと気になって気になって、あわてて文庫本開いて・・・読むべきですね、ぜったい、 原作も。ハリウッド映画らしく「ここは脚色だろう」と思った部分も、ほぼ完璧に原作に忠実で、それだけトールキンの原作が完璧ということですね。でも映画 では撮影した半分ちかくもカットされた(入りきらなかった)部分があったそうで、それが全部あの赤いちっちゃな文庫本の中に詰まっていると思ったら、小 説ってすごい。そしてあの世界を映像化して見せてくれた映画もすごい。
敵のサウロン方に付いたいろんな者たちの背景も知りたいし、いろんな地方から参戦した人間方の背景も知りたいし、、、。昨日、図書館から借りてきた『指 輪の力』(早川書房)は割りとお薦めです
著者のジェーン・チャンスはもう25年もトールキン論を教えている教授ということで、彼女の教え子(当時大学院生)と書いてあるデイヴッド・デイは、邦 訳でもいっぱい指輪物語とアーサー王伝説の本を出している人です
映画みたあと『指輪の力』をちらちら読んで、考え方を見直させられた部分が本当にあって(ゴラムのこととか)、ああもっとちゃんと原作を読んでトールキ ンの意図を理解できるようになりたいな、と思ったものです。
『指輪物語』の続編はもう書かれる事はないけれど、レイモンド・E・フィーストのサーガシリーズは今もつづいているから(邦訳が今にも消えそうだけ ど…)
指輪をめぐる戦争が遠い<伝説>になった頃の、王たちの世界がフィーストの世界と思っていただければいいかも。でもまだこの世界にはエルフもドワーフも ゴブリンらもいて、中つ国は<ミドケミア>に、モルドールは<モレデール>など、トールキンへのオマージュで溢れています。映画では余り(全然?)出てこ なかったけど、サルマンの配下の<蛇の舌>というのを読んで、「ああ! フィーストの蛇族はここから来たのね」と納得。
エルフの王子ケイリンはまさにレゴラスだし、<馳夫>のようなマーティンは演じるなら絶対ヴィゴだし、最初の主人公パグもイライジャで決まり、魔法使い の先生はやっぱりマッケラン様かな…?と、指輪物語の世界が気に入った人なら、きっと楽しめる小説だとホントに思います。もっともっとフィースト作品が広 まって欲しいな、心から。
さっき、ショウビズでレゴラス(オーランド)が「演じながら歴史の一部を創っているみたいな気がした」と語ってましたが、指輪物語も、フィーストのサー ガも、私には本当に歴史の一部です。。。
それにしても、映画、、、○○には泣かされっぱなしでしたの。
エ スペデア・ストリート / イアン・バンクス
数週間前、本好きの友が読んでいたのがイアン・バンクスだったので、「どんなの?」と尋ねたら、「70年代の英国のロックスターが主人公で、でもジョー イ・ラモーンみたいな大男で、だけど痩せてなくてダサくて、それでZEPくらい儲けた後、なんか隠遁生活送ってるみたいなんだ・・・」というのだった。 「面白そうね、じゃ、レポート終わったら読むわ」というわけで、読んだ。
「俺たちくらい成功を収めたのはせいぜい、ストーンズとゼップとザ・フーくらいのもんだろう」、というから相当なスーパーグループの筈。もちろん架空の 話。だけど全然物語が浮いていない、素晴らしく冷静で巧みな物語に仕上がっているのは、ひとつには、彼ら(バンド)がスコットランド出身だという設定 (ちゃんとシーンに対して冷静で疑い深い眼を持っていられる)、そして主人公が労働者階級出身の、コンプレックスの塊の冴えないベーシストで、だけど曲作 りの天才だという事(スポットライトを浴びる役目は中産階級出の、たぶんデヴィッド・ボウイくらいカッコ良いヴォーカリストともうひとりちゃんとバンドの 華がいるという事)、そして70年代の大成功の後バンドは・・・彼(ベーシスト)は巨万の富を手にどこかの島で隠遁生活を送っているのだとか、いやもう とっくに死んでいるのだとか、そんな勝手な噂の陰で、じつはグラズゴーの街で「ただの男」として暮らしている。バンドの仲間とは音信不通。ワールドツアー とドラッグ漬けの日々はじゅうぶん大男を蝕んでもいた(いる)ようす。。。
本当は狂ってなんかいなかった(?)行方不明でもない(?)シド・バレットみたい?なんだろうか・・・
ロック小説の鬱陶しい狂熱はない。隠遁生活4年目の男は31歳くらい、かな? グラズゴーの街ってところがいい。飲んべえの親爺とか、シンナー中毒みた いなガキとか、一緒に酒を飲むバカ犬とか、、、。でも、ときどき大男を襲ってくる、どうしようもない哀しみみたいなもの、、、失ってしまったものが何なの か、はっきりわかっているようでわかっていないような、今の自分。
「俺はバーで曲が流れれば、編曲されていて も、どのバンドの曲かすぐにわかる。イントロの数小節が流れれば、俺にはわかった。だが、俺たちがアルバム に入っているとおりにイントロをプレーしても……しばらく経たなければファンは反応しなかった。そして、ようやくお気に入りの曲だと気づけば、飛んできて 俺たちを溺れさせようとする……。それは時間差のせいだと思っていた。音が彼らのところへ届くまでそれだけの時間がかかるのだと思っていた。ちがった。人 人が[鈍い(傍点)]だけだった。」
イアン・バンクスは毎回全くちがうタイプの小説を書く人で、ロック小説だけを書くのじゃない。SFも書くし、スリラーも。
ロックのサウンドが聴こえてくるようなグルーヴ感のある小説ではないです。だけど、凄く「本質」の部分を突いて来る人だ、という気がした。バンドは70 年代の、PUNKの暴動がロンドン中に巻き起こる寸前に活動し、80年代に入るとともに消えた、そんな「時代性」も含めて、、、見事な筆力です。
でもね、すごく身が刻まれるような気持ちにもなるんだけど、とてもとてもあったかいのですよ、、、何が?とは書けないけれど、最後に向かってぶおとこの 大男が突っ走り始めるあたりで、筆までも冷静さを忘れて熱くなっていくあたり(もちろん確信的にだろうけど)、、、。
燃え尽きて、隠遁生活を送っているロックスターの物語を、いま読んでいる自分、、、というのも、ちょっと不思議な気持ちがしたものですが・・・バンクス が38歳でこれを書いた、というのも、なんかイイなと。
読み終えて、とてもとてもあったかい気持になれる小説です。だから、お奨め。『エスペデア・ストリート』(イアン・バンクス著 角川書店 2001年)
光 る砂漠―詩集 若い人の絵本 / 矢沢 宰
矢 沢宰さんの本のリストです>>
数日前、公園の中に、そこだけ白い小鳩が群れているかのようなこぶしの花を見つけた。そして日曜日にも、家の近くでこぶしの花を見た。春を告げる花。宗 教画の中に聖霊として描かれる白い小鳩。平和の鳥。そんな風に見える白い花。
でも、もしかしたら、こぶしの花に近づいていくと、群れ集っている鳩がいっせいに飛び去ってしまい、あとには何もない、裸の梢になってしまうんじゃない かと、いつでもふっとそんな気になってしまう。
子供の頃、こぶしの花を私は詩の中で知った。故郷にだってこぶしの花は咲いていて、目にしてもいたのだけれど、こぶしの花の名は先に詩の中で知った。そ のことを、今日ふいに思い出して、あれはどんな詩だったろうか……詩集の題は、確か、光る…、「光る…」
そこから先が出てこなかったので、「光る」と「詩集」で検索してみたらありました。矢沢宰さんの『光る砂漠』。小学生の時からずっと腎結核で入退院を繰 り返して、21歳で亡くなられた青年の詩集。。。この詩集を本屋さんで見つけた日のことは今でもはっきり覚えている。故郷の本屋さんの、どの書棚にあった のかさえ思い出せる。矢沢宰さんの詩を、同じように入院ばかりしていた自分と、たぶん重ね合わせて読んでいたのだろう。
ネット上に、矢沢宰さんを紹介するHPがありました。
14歳から21歳までの詩や日記も掲載されていました。少年から青年へと、成長していく過程。詩の中で「僕」から「俺」に変わっていったり、まだそんな 年齢でもないのに、「女がくれた…」と表現してみたり、彼のそんな健康な気負いさえ、病の前で生命が懸命にかがやいていた言葉として胸を打ちました。読み 返してみたら、どの詩も読んだ記憶があって、せつなくってどうにもし様がなくなりました。
こぶしの花の詩は見つからなかったけれど、こぶしの花がきっと咲き始める3月11日に、矢沢さんは亡くなられていました。だから、というのではないで しょうけれども、なぜか私はこぶしの花を見ると、つどった鳩が逃げないように、そこでずっと咲いていてくれるようにと、そんな気持ちになってしまいます。
でも、大好きな花。。。
情 報の歴史―象形文字から人工知能まで / 松岡 正剛
松岡正剛さんによる世界同時年表『情報の歴史』(NTT出版)の1985年には「ドラマよりもニュースステーション」と書かれています。まさにそんな時 代でした。
ニュースステーションでU2使うなんて、と意地悪言ってしまったので(・・・ 最近見ていなかったのでいつからかは知らないけれど、「ニュースステーション」のテーマ音楽がU2になっていてびっくりした・・・)、お詫びの意味もこめて、「久米さん、お疲れ様でした」。。。あの番組が始まってからというもの、 故郷で母とふたり、時には兄と3人で、ほぼ毎晩、9時のNHKから、11時代までニュースの梯子をしていたような家族でした。85年ゴルバチョフ政権、ラ イブエイド、86年フィリピン2月革命、チェルノブイリ原発事故、87年INF撤廃条約、88年ペレストロイカ、89年東欧民主化、ベルリンの壁撤廃、天 安門事件・・・悲惨な事故や内戦も確かにあったけれども、世界は破滅への歩みを僅かながら止めようとしていた、民衆と情報のちからによって、、、。と、多 感な若者世代のひとりでもあった私は、久米さんの語るニュースの中からそのような希望を感じとる日々でした。
久米さんのことで忘れられない一瞬というのがあって、フィリピン革命の晩、大統領邸というか、あの権力と富の宮殿に民衆が押し寄せ、マルコスが屋上から ヘリで脱出する映像がLIVEで届けられた時、久米さんはそれを見ながら「この瞬間、マルコス"前"大統領になったと申し上げて良いでしょう」とコメント した。独裁者が人々のちからの前で逃げ出していく、、、その感慨を、久米さんのこのコメントと共に私も感じ取っていた。余談だけれど、パティ・スミスの9 年ぶりの新曲「People Have The Power」が届けられたのは、まさにこの後、世界が大きな情報の流れによって人々を結集させ、民主化の嵐が吹き始めていくその矢先、88年のことだった のだ。
聞いて、夢みている総ての事は
団結することによって実現出来る
私たちは世界を操作できるし
地球の革命を方向づける事も出来る
私たちには力がある
人々には力がある (「People Have The Power」訳詞より)
コ ニーアイランド物語 文学のおくりもの 25 / ノーマン・ロステン
『ヴォ イツェク』公演(2003年9月)の内容についてはこちらです>>
NYはブルックリンにあるConny Island のオフィシャルサイトです>>
先日、デヴィッド・ボウイの公演を見た時、彼がスクリーンに コニーアイランドの風景を映し出し、「Slip Away」を歌った事を書きました。(↓)
*****
今回のLIVEで、私が一番いちばん感動したの は、Ziggy時代の曲も勿論だけれど、一番は「Heathen」からの「Slip Away」でした。曲の前にボウイはアメリカのTVショーのパペット劇を後ろのスクリーンに映し出して、Uncle Floyd Showに出てくる(ら しい)キャラクターを紹介してくれました。そのUncle Floydを歌った歌。そして、歌詞にも登場するNYっ子らの大好きな遊園地「コニーアイラン ド」の風景がスクリーンいっぱいに映し出されました。コニーアイランドへ行ったことも無いのに、コニーアイランドへ妙なノスタルジーを抱いている私は、古 臭い大観覧車や、くるくる廻る乗り物の映像を、胸一杯になりながら眺めていました。ルー・リードも歌ったコニー・アイランド。そして昨年秋、劇「ヴォイ ツェク」の中で、トム・ウェイツによって愛の最高の時の象徴として歌われた「コニー・アイランド・ベイビー」。。こういうものが全部一色になって、ボウイ が言わんとしていることがやっと理解できたのです。そして、スクリーンには歌とともに下の歌詞が字幕になって浮かんで来ました。*****
Don't forget to keep your head warm
Twinkle twinkle Uncle Floyd
Watching all the world and war torn
How I wonder where you are
現代の世界の姿と、かつての人々の平穏な日々の象徴みたいだったコ ニー・アイランド。9・11よりも前に、この曲を書いてしまったボウイはやっぱり辛 かったのでしょう。自分が感じ取ってしまったこと、その不安が現実になって、予見を超えて最悪な状況をすら見なければならなかったこと。
9・11の2日後くらいにボウイネットに掲載された言葉が忘れられま せん。「あの日、逃げていく大勢の人たちを見て『みんなどこへ行くんだ?』と言って いたホームレスの男は、今は『おおい、みんな何処へ行ったんだ?』と言っている。今、街はひどく静かだ。しかし、これがやがて憎しみに変わるのだろう…」 たしかそんな文章でした。でも、フロイドおじさんの思い出と共に、コニー・アイランドの幻想的で幸せそうな風景をボウイは見せてくれました。上に挙げた痛 ましい歌詞を一緒に歌いながら、でも、コニー・アイランドを見せてくれてありがとう、ボウイ。。と感動しつつ・・・
その直後、図書館で『コニーアイランド物語』(ノーマン・ロステン著・晶文社)に出会って読んだ事も書いておきましょう。何万ものNYの庶民が夏の週末を 過ごす海辺の遊園地。ボードウォークを歩く人々の足音がまるでバッファローの群れのように聞え、観覧車のひとつひとつのカゴを彩るたくさんの豆電球に蛾た ちが群れ飛んでいた最盛期の時代に、そこで暮らした少年一家の物語。遊園地そのものが主題ではないけれども、ボウイのあの歌を裏打ちしてくれるような物語 でした。
そして、昨年から私に届けられたコニーアイランドのこれもミラクルな結びつき。ルー・リード、トム・ウェイツ、それからデルモア・シュワルツの『夢で責 任が始まる』(く わしくはル・リードのページで>>)。パパとママはコニー・アイランドでメリーゴーランドに乗り、ボードウォークを歩き、パパはママにプロポーズ するのでしたね。それなのに、、、不思議でせつない人生の謎のような、短い物語。
この一本の道筋も、まだどこかへ続いているような気もいたします。
近 世俳句俳文集 新編日本古典文学全集 / 小学館
こがらしの 果てはありけり 海の音 (池西言水)
ちょっと季節感がはずれてしまいましたが、山を降り、野を駆けた木枯らしがやがて海に行きついて、潮騒になって消える、、、厳しさも感じるけれども、世 界を一巡するような大きさも感じる素敵な句だなあ、と思います。
宙を翔け ぬけてきた「こがらし」は「海」にぶつかり「浪」となってそのかたちを終えるかもしれないけれど、その「エネルギー」はちゃんと伝えられて続いていく、ひ とつの「かたちの果て」が次の「力の果てしなさ」につながっていく・・・「はて」には「果」という字と「涯」という字が漢和辞典には載っていて、この句では本にある「果て」を写しましたが、涯=岸、みぎわ、の意味をも持つ 「涯て」の意味合いに近いのではないかしら、と思うのです。ひとつのendには違いないのだけれど、その先、その外にはまだ何かがあるedgeの意味にと らえたい「はて」なのです。
言水は、1680年ごろ、若き芭蕉とも交流のあった人だそうです。
たましひを 盗まれにゆく 花見かな (田中常矩)
骸骨の 上を装(よそ)ひて 花見かな (上嶋鬼貫)
こちらも1600年代後期、延宝、天和、貞享の頃の人。桜の妖しいまでの美しさと、人間の真相を見透かすような、美と醜ないまぜの世界に惹かれま す。。。俳諧(俳句)の知識はほとんどないのですけれど、こんな昔の句にも、どきっとさせられるものがたくさんあるのですね。『近世俳句俳文集』(小学 館)より拾ってみました。
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日本画の加山又造さんが亡くなられました、残念です。大好きな加山さんの動物画のことには、以前触れました。
桜の淡い花吹雪が舞い散っている、ちょうどその季節の加山さんの旅立ちでした。
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私と同じ病気で、さまざまな医療情報提供などの活動をなさっていた女性が、この春、亡くなりました。私よりも年齢は少し下だったと思います。
そして、仕事の友人がもうすぐ、ある手術を受けるために入院します。
いのちは誰でも限りあるものだと知っています。でも、その限りある生命の、限りの一刻を自分のものとして突きつけられてこそ、誰よりも強い意志で活動を やりつづけ、また、辛い手術に立ち向かう強さが生まれたのでしょう。
・・・大学のキャンパスでは、樹々に新しい葉っぱたちがたくさんたくさん芽生えて、とても美しい緑でした。生命を感じて歩く日々です。
ポー ル・オースター 現代作家ガイド (1) / 彩流社
<・・・煎じ詰めれば、私の作品は徹底した個人 的絶望、世界に対する無力感と底無しのニヒリズム、私たちがはなかくていずれは死ぬべき存在であるという事実、言語の力不足、そして人間の孤立に根ざして いると思います。と同時に空気を胸いっぱいに吸い込み、自分が生きていると感じるときのとてつもない喜びや美しさ、自分の肌で生きていると感じるときの浮 き浮きした思いをも描きたいと思っています…(略)…これが私のやってきたすべてのことの核心です。つまり意味があるんだ、ということ。私の作品に出てく る人たちは皆もがいたり、苦しんだりしますが、それも彼らにとっては意味のあることです>
「オースターとの対話」より
<・・・オースター自身はリアリストを自称し、 彼にとって偶然はリアリティの一部に過ぎない、と語っているのだが、因習的なリアリズム小説での現実は因 果関係によって構築されるのだから、因果関係を超越した所にある「偶然」はリアリズムを否定する。…(略)…「偶然」とはポストモダン社会における真実で あり、それは主体の不確実性や、解決を拒む物語構造とともに、多くの批評家たちがオースターをポストモダン作家とみなす一因でもあるが、同時にアメリカ文 学はロマンスの伝統というものを持っており、……その伝統の中にオースター作品の偶然を置いてみることもあながち間違いではないだろう>
「オースターとロマンスの伝統」
リアリズム、リアリティ、現在におけるリアル、私たちはこの世界の中のどれだけのリアルをとらえているのか、本当にあった話はリアルなのか、ありえない 事は本当に現実化しないのか、現実化したものだけがリアリズムなのか、、、、ずっとずっとそのことが頭を離れなかった。ずっとずっとそのことと抗ってき た。
自分は何故、あのような小説を書いたのだろう、、と過去を振り返ってみても、その時の自分の精神状態や思考の推移を思い出すことはもう不可能。でも、上 記のようなオースターの言葉、オースター作品のあらゆるページに力づけられ、自分に寄り添ってくれているような感じが与えられ、この引用文を拾った『現代 作家ガイド ポール・オースター/彩流社』に出会えて良かったと思う。
なにがあってももうおかしくないこの世界に対する、ひとりの少女や、少年や、一個の女の、精一杯の現実認識と、その苦しみと、迷いと、肯定・・・そんな 物語を、またいずれ書きたいと思う。時が私にGOサインを出してくれる時に。時間が私に命じてくれる時に。もしその時間があるなら。
***
「ファルージャの現状」では、米軍がイラク市民の負傷者を運ぶ救急車さえ狙撃している、と報じています。一方、CNNでは、「イラクの反乱軍は救急車に 武器を隠してモスクへ運び入れている」と報じています。。。ふたつの事実を私たちは受け入れなければなりません。
ポール・オースター
ムー ン・パレス 新潮文庫
リ ヴァイアサン 新潮文庫
鍵 のかかった部屋 白水Uブックス
幽 霊たち 新潮文庫
ポール・オースターのことを書きましたが、またちょっと続きを。。
去年の春、ポーとルー・リードのことを考えていた頃、おもむろに「ポール・オースター」のドキュメンタリーフィルムが上映されることを知って観に行った ものだったけれど、そんな風にポー>ルー>オースター>漱石>ポーと連鎖反応が続いて・・・しばらく忘れていたのが、この春また何故か急にオースターが読 みたくなり、試験の2週間前だったのに、それから一週間オースター漬け。『ムーン・パレス』の中で、主人公が引っ越してきた部屋の窓からMOON・ PALACEの看板を見つけ
「そして徐々に理解した。僕は正しい場所に来たのだ、と」
そんな風に「突然の、絶対的な経験」であるみたいに、むかし読みかけていた『リヴァイアサン』を読み、すっかり忘れていた『鍵のかかった部屋』を読み、 そして例のオースター解説本を読んで、つぎは『偶然の音楽』を読もう、と思っていた矢先、やっぱり突然、いま銀座で「幽霊たち/ジョン・ケスラー&ポー ル・オースター展」が開かれていることを知った。なんて素敵な驚き。。。
で、昨日見てきました。エルメスという私には縁の薄い(笑)瀟洒なビルのギャラリー。店員さんがうやうやしく開けて下さる入口を通って8Fへ。展示内容 については以下のexciteニュースで詳しく紹介されているのでこちらを見てみてください。
どうしてオースターに入れ込んでいるか、というと、上で書いたリアリティの問題を彼がずっと著しているからだろうし、何処にもない世界、消えてしまった 人間を彼が描こうとしているからだろうし、でも、その中で何より惹かれるのは、こんな文章があるからなのだ。
「つまりゴールドは、子供を殺した犯人が罰せら れずに済んでしまうような世界を認めたくないのだ」
これは『幽霊たち』中で主人公ブルーが読む、物語の主筋とは<何の関係も無い>雑誌のとある殺人記事への思索。つまり物語中のほんの小さな別物語。そこ に他者(殺されてしまった少年)へのこんなに優しい想像力がきらめいている。そしてブルーは考える。
「ふと彼は、自分もまた二十五年前には少年だったこと、その少年が生きていればいまごろは自分の年齢であることに気づく。それは俺だったかもしれないの だ、とブルーは思う。俺がその少年だったかもしれないのだ」
「もし自分だったら…」その想像力が、きっとオースターに「何処にも無い世界」や「消えてしまった人間」のことを書かせているはずなのだ。
悲惨な事故の犠牲者は自分だったかもしれないし、テロに遭遇したのも自分かもしれない、、、戦場送りになるのも自分だったかもしれない、、、
そこなんだよ! と思ってしまう。
「もし自分だったら…」と考える必要の無い人間が無理矢理引き伸ばす戦闘地域へ、「もし自分だったら…」としか考えられない人間が入り込んでしまって捕 らえられ、でも、「もし自分だったら…」と思いやるたくさんの人の声が届いて、「もし自分だったら…」と、捕らえた側も想像できたから解放してくれ た。。。そこなんだってば。。。
自分のすぐ前で雷に打たれて死んでしまった少年のエピソードや、自分の娘が貿易センタービルの下を通った1時間後にビルが崩れ去ったことや、オースター 自身の「偶然」体験も不思議で、興味深いことがいっぱい。それが、「偶然はリアリティの一部」という言葉になる。
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