2012年4月26日木曜日

短歌理解の基礎知識


短歌理解の基礎知識

短歌理解の基礎知識

@数え方 一首、二首……と数える(俳句は一句、詩・小説は一編)

A形式  「五七五七七」(三十一音)の韻律をもつ定型詩

           (初句) (二句)  (三句)    (四句)  (結句)
 
                                 
    (上    の  句)  (下 の 句)


     短歌鑑賞のポイント

 短歌は叙情的な(心情を描く)傾向の強い詩です。ですから、「いつ」「どこで」「どういう状況で」「なぜ」作ったのかを想像し、なるべく具体的にイメージしながら、作者の感動の中心を読み取ろうとすることが大切になります。それには次にあげるような点に注意すると分かりやすくなります。

@ 句切れ(一首の中にある内容的な切れ目のこと。倒置や言い切りの語などが句切れなる。)

  ☆句切れを把握すると、短歌の構成やリズムを理解出来ます。
   a 五七調『万葉集』型
     ・五七  五七七 (二句切れ)
     ・五七五七  七 (四句切れ)
     ・五七  五七  七 (二句四句切れ)
 
        b 七五調『古今集』『新古今集』型
     ・五  七五七七 (初句切れ)
     ・五七五  七七 (三句切れ)
     ・五  七五  七七 (初句三句切れ)
   c 句切れなし

A 字余り・字足らず(各句の音数が定型より多かったり少なかったりすること。)

 字余り・字足らずの句は、リズムが壊されるので他の句より目立つことになり、そこに感動の中心があることを示すことが多いのです。

B 句のかかり受け(それぞれの句がどこを受け、どこにかかるかということ。)
 省略・倒置などを見つけることにもつながります。

C 止め(歌の結びがどうなっているかということ。)
  ・体言止め(印象を鮮烈にし、余情を表現する)
  ・助詞止め(「けり」「かな」などがあり、感動の中心を示す)

D 繰り返し・反復(同語・同音・同子音・同母音の繰り返し。)
 繰り返しや反復はリズムを作り、また何かの象徴や強調になります。

E 比喩・象徴(何かで別のものを暗示すること。)
 直喩、隠喩、擬人法、オノマトペ(擬態語・擬声語)などがあります。心象風景も象徴の一種で、読み込まれた風景が作者の心情・心境などを象徴します。

F イメージ(歌全体を統一したり、引き立てあわせたりすること。)
 一首が一つのイメージで統一されているとは限りません。色・音・形・大きさ・高さ・重さ・香りなどの表現は対比的・対照的に用いられることが多く、お互いにイメージを鮮やかに強調することになります。

G 文字の表記(漢字、ひらがな、カタカナなど、どのような表記をするかということ。)

 漢字とひらがなとを比べると漢字は堅く強く重々しい、相対的にひらがなはやわらかくよわくかるく感じられます。あくまでも「比較すれば」ということですが、たった三十一音の世界ですから、作者は当然こだわっています。


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H 伝統的な短歌(和歌)との違い(和歌のルールを破ることがその短歌の新しさを示す。)
  ・漢語、俗語、外来語など自由な言葉の使用。
  ・カタカナの使用、句読点の使用など自由な表記。
  ・分かち書きの試み(石川啄木の三行分かち書きが有名)。
  ・序詞、掛詞、縁語などの修辞法を用いない。
  ・破調、定型の打破(口語短歌、自由律短歌など)。
  ・個人的な感覚を詠むこと(個人的な体験、個人的な美意識を詠み込む)。


        短歌鑑賞の実際

 これらのことはあくまでも短歌を鑑賞するための準備のようなものです。ここから鑑賞が始まるといってもよいでしょう。大切なことは「いつ」「どこで」「どういう状況で」「なぜ」作ったのかを想像し、なるべく具体的にイメージしながら、作者の感動の中心を読み取り、あたかも自分が体験したかのように実感することです。それには声に出して読み、リズムや音を味わいながらイメージするのがよいと思います。
 以上の鑑賞上の注意点を与謝野晶子の次の短歌で確認してみましょう。

   その子二十櫛にながるる黒髪のおごりの春のうつくしきかな

@ 句切れ 体言止めが目印になり、初句切れです。初句を強調したことになります。

A 字余り 「六七五七七」で初句が字余りです。リズムが乱れ、結果的に強調されます。

B かかり受け 初句を別にすると省略も倒置もなく、「櫛にながるる黒髪の」と「おごりの春の」とがそれぞれ結句の「うつくしきかな」にかかっていって、まとまっています。

C 止め 結句は「かな」で助詞止めになっていて、詠嘆を表しています。Bのかかり受けと合わせて考えると結句の「うつくしきかな」が歌の中心であることが分かります。さらに、字余りや句切れのことを合わせて考えると、初句と結句に歌の中心があるといえるでしょう。


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D 反復 初句の母音の配列を調べると「その子二十」ですから「オオオアアア」になっています。声に出して読むと「二十」が強く、大きく強調されているような感じを受けないでしょうか。
 「アエイオウ」の順で発音してみると分かりますが、口の開き方が大小になっていきます。それに従って音の印象は大きくはっきりした「ア」からだんだん小さくこもった印象の「ウ」へと変わっていくのが分かると思います。このように考えると「アウ」は「明暗」「強弱」という印象があるといえるでしょう。ただし、このような印象はあくまでも比較して相対的にいえることであって、「『ア』が絶対的に明るい」とか「『ウ』が多い歌は必ず弱い」とかいえるわけではありません。
 「二十」が仮に明るく、強く、大きく強調されているような印象があったとしても、それは「その子」のあとにあるからです。「オオオ」と閉じぎみの口で三音発音したあとに、急に目一杯口を開いて「アアア」と「ア」音を三回連続させるからです。その対比がそのような印象与えるのです。さらに、そのあとすぐに「櫛にながるる」で「ク」と一気に口を小さくすることも「二十」を印象づけるのに役立っているといえるでしょう。
 初句と結句が強調されていますが、そのなかでも「二十」が特に大事な語句であることがわかると思います。つまり、この歌は「その子」が美しいことを詠んだ歌ですが、たんに女性の美しさを詠んだものではありません。その美しさは二十才という年齢の時の女性の輝きを詠んだものなのです。
 そのほかの反復を調べると「の」が多いことに気づきます。さらに母音を調べると「オ」音は実に九回も出てきます。三十二音のうちの九音が、それも第四句(二十五音目)までに集中して繰り返し出てきます。これは何かを表現したものでしょうか。おそらく黒髪が「ながるる」様子を象徴したものでしょう。「オ」音の反復が長い髪をとかしているように感じられませんでしょうか。
 それはともかく、「の」や「オ」音の反復は本当に意図されたものでしょうか。偶然ではないのでしょうか。これは偶然ではありません。そもそも三十二音しかないのですから、作者は細心の注意を払って言葉や音を選びます。また、この歌の場合「ながるる黒髪の」の「の」は「の」であるために「うつくしきかな」にかかっていくのがわかりにくいのです。例えば「黒髪や」とか「黒髪よ」とかいうように切ってしまったほうがはるかに意味はわかりやすいと思います。そのわかりやすさを犠牲にしても、きっと作者は全体の流れを大事にして切らないようにしたのでしょう。


E
比喩象徴 「おごりの春のうつくしきかな」の「春」は実際の春という季節を示していません。二十の自分の美しさを春のイメージで象徴させたものです。二十が人生の春だと考えてもよいでしょう。
 「ながるる黒髪の」の「黒髪」は実際の髪の美しさを詠み込んだものですが、これも自分の美しさを象徴していると考えられます。髪だけが美しいと詠んだわけではないでしょう。美しさを黒髪で代表させたのでしょう。このように何かを何かに代表させた表現を特に換喩といいます。たとえば、背の高い人を「のっぽさん」などと呼び、その人自身を指し示すのと同じです。

F イメージ この歌の中には対立するイメージが詠み込まれていません。しかし、新鮮で若々しいイメージで統一されています。例えば「ながるる黒髪」は反対の白髪ではなく黒髪なのです。それはたんに「髪」というよりも若さを強調できるでしょう。さらに「ながるる」ということで子供のように短くない髪だということを示すことで、成熟した若さだということもわかります。
 また、「おごりの春」は夏でも秋でも冬でもなく春なのです。「二十」「ながるる」「黒髪」「春」をイメージとしてとらえると、歌全体で「成熟した若々しい美しさ」を一貫して強調しているといえるでしょう。


G 文字の表記 ふつう漢字で書く「ながるる」「うつくしきかな」がひらがな表記になっています。このようなものは作者に意図があります。どちらも漢字で表記するよりも、しなやかな印象を残すのではないでしょうか。「黒髪」は画数が多く重々しいので、力強く感じられるとすれば、「その子」の美しさはしなやか、かつ、力強いものだといえるでしょう。

H
和歌との違い この歌は画期的に新しいものですが、その新しさは歌の内容にあります。まず、自分が美しいと詠んでしまったことは衝撃的でした。それも「その子」というように客観的にとらえて美しいというのですから驚きです。はっきりいって、奥ゆかしさのかけらもなくずうずうしい限りです。
 さらに、自分の部屋の中でのこと、それも髪をとかしていることを詠んだのも、衝撃的でした。化粧を電車の中でする人たちをよく見かける現代では分かりにくい感覚ですが、当時はそのような姿は絶対見せるべきものではないし、見られてもいけないものだったのです。つまり、この歌は見方によっては、下品で、恥知らずで、みっともない歌なのです。
 しかし、当時の男性はこの歌を読み、情景を想像してドキドキしたことと思います。また逆に、作者の立場になって考えると、そのような姿を歌に詠むことは大変な勇気が必要だったと思います。なぜなら、部屋で髪をとかす姿が美しいと詠むことはそれまでの美意識(何を美しいとするかということ)など、和歌の伝統や、古い道徳や慣習に反発し挑戦することを意味するからです。とにかく大胆な行為であり、画期的なことだったのです。ですからきっと女性もドキドキしたと思います。

        短歌と和歌の違い

 このように近代短歌を理解するには、それまでの「和歌」との違いを知ることもとても重要です。最後に、和歌と短歌の違いについて説明します。
 現在のような「短歌」は明治時代から始められたものです。それまで「五七五七七」の韻律(音数とリズム)をもつ詩は「和歌」と呼ばれていました。つまり、短歌と和歌は違うものなのです。それでは、和歌とはどのようなものでしょうか。

和歌のスタイル
  日本最古の歌集と言われる『万葉集』には、短歌(五七五七七)のほかにもいろいろな韻律の和歌があります(『新国語便覧』七二頁参照)。それが平安時代に入ると、勅選和歌集に選ばれる和歌がほとんど短歌になり、和歌と言えば短歌であるかのようになります。
 このように、和歌にはさまざまなスタイルがあったのです。本来「和歌」とは中国の漢詩に対して「日本(大和)の歌」のことを指していました。つまり、さまざまな日本の伝統的な詩のスタイルを総称して、和歌と呼んでいたのです。

和歌の定義  紀貫之は『古今和歌集』の初めに次のように記しています。《やまと歌は人の心を種としてよろづの言の葉とぞなれりける》つまり「和歌は人の心をもとにして、さまざまな言葉としてあらわされたものだ」というような意味です(『古今和歌集』「仮名序」)。ということは、必ずしも「五七五七七」の韻律である必要はなかったのです。「人の心を種として」していれば良かったのです。

和歌の発展  しかし、 その後和歌は、短歌を中心にして、こころを詠むこと以上に「言葉の芸術品」として、高度に洗練されていきます。『万葉集』は比較的素直に心情を歌い上げたものが多いといわれますが、そのような歌はしだいに減っていきますし、あまり良い評価を受けなくなっていったようです。つまり、「何を詠むか」よりも、「どう詠むか」に歌人たちは心を砕いたのです。どう詠むかということは表現技巧にも関わります。だから、「掛詞」や「縁語」「本歌取り」などの修辞法が発達し、仮に同じ内容でもそれらが効果的に使われているのが良い歌とされました。


和歌の言葉  「どう詠むか」ということはすなわち「どう言葉を使うか」ということです。それにはまず、「どんな言葉を使うか」ということが問題です。
 もともと漢詩に対して和歌というのですから、和歌に漢語は使いません。例えば、草や木の葉につく水滴は「露(つゆ)」といっても、「水滴」とはいいません。同じものをさしていますが、和歌では「水滴」という外来語(中国語)は使わずに、「露」というもともとの日本語(やまと言葉)を使うのがきまりです。この区別は音読みと訓読みとの違いに対応しています。この違いは漢字を中国から取り入れたときに生まれました。音読みとはその漢字の中国語読みそのまま、訓読みとはその漢字に対応する日本語、つまり意味です。要するに音読み(中国語)を使ってはいけないのです。和歌は「やまと歌」ですから当たり前といえば当たり前といえます。

歌   やまと言葉のうちでも、和歌にふさわしい言葉がしだいに限定されてきます。俗語(日常の話し言葉や汚い言葉)を使ってはいけません。和歌には雅語を使わなくてはいけません。雅語とは伝統的で上品な言葉のことです。定義自体があいまいなので何が雅語かというのは難しいのですが、勅撰和歌集などで一度でも使われた言葉は使っていい言葉です。昔の人にも難しかったらしく江戸時代には『雅言集覧』というような雅語を集めた辞典も編まれています。その雅語の中でも特に和歌のための言葉を「歌語」と呼びます。例えば、「蛙(かえる)」のことを「かはづ」とも表現したり、「鶴」は「たづ」ともいいます。また「我妹子(わぎもこ)」とは男性が愛する女性を呼ぶときの言葉(現代語には訳しにくくて、英語だったら「ハニー」とか「ベイビー」)ですが、これは英語の「ハニー」や「ベイビー」とは違っ� ��日常語ではありません。和歌にしか使わない言葉です。このような言葉はたくさんありますが、例えば「玉緒(たまのを)」もその一つです。これは本来は宝石を突き通すひものことですが「命」の意味の歌語として使われるようになりました。
 これらはかなり厳しいルールで、仮に韻律が「五七五七七」になっていても使ってはいけない言葉(漢語や俗語)を使ってしまうと「これは和歌ではない」ということになります。

詠む内容
  このように使う言葉が限定されるということは、どう言葉を使うかということだけではすみません。「何を詠むか」という内容をも縛ることになります。伝統的で上品な言葉しか使えないのですから、伝統的で上品なことしか詠めないのは当たり前でしょう。
 何が詠んでいいことで、何は詠んでも和歌とは認められないかは、これも難しくて時代や流派によっても違うのですが、例えば、よく詠まれる場所は「歌枕」といいますし、「花」といえば平安時代以降はほとんど桜のこと(「万葉集」では梅)です。なんとなく「歌になるもの」というのがきまっているのです。それはつまり歌にするのに値するものと値しないものがあるということです。一般的に、桜が散るのは歌になりますが、ふつう梅が散るのは歌になりません。梅はその香りを詠むものです。秋の夕暮れは詠んでも、冬の夕暮れはふつう詠みません。月が美しいのは秋に決まっています。
 これらも大変厳しいルールで、詠むに値しないことを詠んでも「これは和歌ではない」ということになりかねません。

古今伝授  このようなことからでしょうか、勅選和歌集の編集権など和歌の流派の同士の争いなどもあって、複雑な和歌のルールを教えるということがでてきます。これが秘伝となって「古� �伝授」と呼ばれるようになりました。和歌の作法を伝授するのですが、このことは伝授されない人には和歌を詠むことが出来ないことを意味します。和歌を詠みたいと思う人がどのくらいいたかはわかりませんが、和歌に親しむ貴族でさえ自分では作れなくなるわけです。江戸時代以降「古今伝授」は武家や庶民にも行われることがありましたが、詠む内容とそれを表現する方法が高度に洗練されたためにパターン化は避けられず、たんに「五七五七七」にしても歌になりませんから、窮屈で退屈に感じられるようになっていたことは確かでしょう。


短歌の革新  細かいきまりのために窮屈でパターン化したといわれる和歌ですが、明治時代になるとこれを変えようとする人たちが現れます。落合直綱や佐佐木信綱、与謝野鉄幹や正岡子規などがその先導者として有名です。どのように変えようとしたかは、それぞれ微妙に違いますが、新しい時代にふさわしいものにしようとした点ではみな同じだったといえるでしょう。
 実は、この流れは短歌に限ったものではありません。大きな時代の流れです。明治維新は「御一新」と呼ばれていたように、なにもかもが新しくなるチャンスだったのです。たんに窮屈だからとか退屈だから変えようというものではありません。ヨーロッパの近代的な考え方に触れ、共感し、それにふさわしいものに日本全体がなろうとしたといってもよいでしょう。その考え方とは、例えば「自由」や「平等」や「個人の尊重」というようなものでした。これは今では当然の権利ですが、当時の人たちにはなかった「新しい」考え方です。
 それらの考え方を文学にも取り入れたのが短歌の革新ということです。具体的には、それまで一部の上流階級の人たちのたしなみであった短歌を、誰でも、どんなことでも、自分の感じるままに詠んでみようとしたものといえます。
 与謝野晶子の歌はその流れの中で考えないと、当時の人々の衝撃やこの歌の「新しさ」が理解できません。ただし、与謝野晶子は和歌の伝統を打ち破るためにだけ、この歌を作ったわけではないでしょう。おそらく、時代の流れの中で、自分自身を素直に自由に表現しようとしたのだ思います。その時、それまでの和歌の伝統や古い価値観は大変不自由に感じられたでしょうし、結果的に「新しく」ならざるをえなかったのだと思います。
 ところで、和歌は古臭くて駄目になってしまったのでしょうか。そんなことはありません。和歌には和歌のおもしろさがあります。つまり、和歌と短歌は違うものなのです。



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